akkiy’s 備忘録

主にインスタで載せ切れなかった読書記録とか。

【読書記録】「人新世の『資本論』」(著:斎藤幸平) 各章の要約も含めたメモ

 インスタの方で載せ切れなかった「人新世の『資本論』」(著:斎藤幸平)の要約メモなど。

 

 

 

 第一章では、気候変動の元凶としての帝国的生活様式について述べている。帝国的生活様式とは、大雑把に言うと先進国が途上国から資源を奪いとり、豊かな生活をするということ指す。その際に先進国(中心部)の生活の負荷は全て途上国(周辺部)に転嫁されているのである。またその転嫁には、技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁の三つがある。これらの転嫁の例としてアボガド栽培が挙げられている。チリでは輸出用のアボガドが盛んに栽培されている。しかし森のバターとも呼ばれるアボガドは大量の水と養分を必要とし、アボガド栽培に使われた土壌は他の作物の栽培を困難にする。チリは自分たちの水と食糧生産を犠牲にしてアボガドを栽培しているのだ。そこで一度干ばつが起こると、チリの人々のための飲水はアボガド栽培に使われている故にアクセスが難しくなり、加えてコロナ対策としての手洗い用の水はアボガド栽培に使われているので一層希少となる。要するに先進国での「ヘルシーな食生活」の負担がチリに転嫁されているのである。現代社会では先進国の負担が不平等な形で途上国に転嫁され見えにくくなっており、その結果深刻な環境危機を引き起こしているのだ(途上国が発展し、廉価なフロンティアが消滅したことで、先進国内部での労働搾取が激化しているのも特筆すべき事項である)。

 

 

 第二章では、気候ケインズ主義の限界が述べられている。近年、技術革新によって環境負荷を減らす試みがなされ、経済成長と環境負荷のデカップリングを目指す緑の経済成長が今後の切り札のように目されているが、ここでは緑の経済成長やデカップリングは有効であるものの、それだけでは環境危機を防ぐのに全く不十分であるということが、様々な事例を通して主張されている。経済成長はどう足掻いてもそのまま環境負荷につながってしまうのだ。その中で電気自動車に使われるリチウムイオン電池の本当のコストに関する記述がある。リチウムイオン電池には様々なレアメタルが必要で、その一つにリチウムがある。リチウムは主にチリで生産されているが、リチウムそのものは地下水に含まれているので、その採掘においては地下水が大量に汲み上げられている。しかしそれによってチリの生態系は撹乱され、現地の人々がアクセスできる淡水の量が減少している。このように、緑の経済成長だけでは不十分であり、それに伴う負担の転嫁にも目を向けなければならない。

 

 

 第三章では、資本主義社会における脱成長の限界が述べられている。本当に持続可能な地球社会を築く上ではプラネタリーバウンダリー(地球の持続可能性を維持するための負担の上限)に気をつけなければならないが、現状では殆どの国がプラネタリーバウンダリーを超えて社会的要求を満たしている。ここで全体の経済規模を抑える脱成長が必要である。ここにおける脱成長は、GDPを減らすことではなく、経済格差の収縮、社会保障の充実、余暇の増大を重視する経済モデルへの転換を意味する。しかし資本主義のもとでの脱成長は不可能であるとここでは述べられている。なぜなら資本主義の本質は無限の利潤追求、市場拡大、負担の外部化、転嫁、労働力と自然の搾取にあるからである。そのもとでは脱成長は不可能であるし、気候変動に太刀打ちできない。一見脱成長できるように見えても、資本主義は規制改革によって息を吹き返すのである。

 

 

 第四章では、最新の研究による晩期のマルクスの考えが明かされている。従来のマルクス主義は、生産力至上主義とヨーロッパ中心主義を特徴とする進歩史観であるとされてきた。しかしこれは大きな誤解であり、晩期のマルクス主義は自然科学研究と共同体研究によって進歩史観と決別し、脱成長コミュニズムに到達したのである。これこそがマルクスが説こうとした考えなのである。

 

 

  第五章では、加速主義に対する批判が述べられている。加速主義とは経済成長、生産力増大をますます加速させることでコミュニズムを実現しようとする動きのことである。しかし筆者はこれを「生産力至上主義の典型」(210頁)として否定している。加速主義は世界の貧困を救うことを目指しているが、その帰結は皮肉にも自然からの略奪という生物的帝国主義、帝国的生活様式を強化することになる。また加速主義はローカルで小規模な環境保全運動を素朴で無力なものとして批判し、左派ポピュリズムを肯定しているが、資本社会を変革するものは社会運動であり、社会変革、階級闘争の視点が欠落してしまう政治主義だけでは資本の力を乗り越えることができない。ここで社会運動が革新的な結果をもたらした事例としてイギリスの「絶滅への叛逆」とフランスの「黄色いベスト運動」が挙げられている。「豪奢なコミュニズム」を目指す加速主義は帝国的生活様式を抜本的に変えることを全く求めず、むしろ資本によって我々の生活は包摂されて、我々は生きるための技術を失い、「商品」なしでは生きて行けなくなり、資本のもとでしか労働できなくなる。結果的に加速主義は資本の専制を完成させる。

 

 

 第六章では、資本主義の本質である希少性について述べられている。資本主義は一面では技術発展と物質的に豊かな社会をもたらしているが、その本質は人工的希少性を増加させて欠乏をもたらすことにある。資本主義はその歴史から見て、共同体内の共有財産であるコモンズを解体する営みである。コモンズは土地や河川など、生活に必要なものを採取するために、社会全体で管理されるものである。コモンズは誰でも好き勝手に利用できるものではないものの、決まりを守っていれば共同体の構成員であれば誰でも無償で必要に応じて利用できる、潤沢にあるものだった。しかし資本の利潤のために「囲い込み」という本源的蓄積がなされたことによりコモンズから人々が引き剥がされ、コモンズそれ自体が解体された。囲い込み後の私的所有制によって、土地などは人々に閉ざされたものとなり、利用料を支払わないと利用できなくなった。潤沢なコモンズが解体され、希少性が人工的に生み出されたのである。加えてその土地などは、他人の生活が悪化しようと、環境が破壊されようと、所有者が際限なく好き勝手に使えるようになってしまったのだ。ここでは「私財」の増加によって、(「国富」は増大したが)希少性とは無縁の「公富」が減少したという構図を見て取れる。マルクスによれば「富」とは「使用価値」(有用性など)のことであり、私的所有・資本主義によってコモンズの使用価値それ自体は変わらないが、希少性が増大し、市場における「価値」が増える。人工的に希少性を増やすことは消費の次元でも見られる。ブランド化である。商品の使用価値は変わらないが、広告によって商品に相対的な希少性が付与される。しかしこの相対的な希少性は終わりなき競争を生み、また永続的に更新される。結果的に人々はいつまでも「満たされない」感覚を持ち続け、絶えざる消費へと駆り立てられる。加えてこの無意味なブランド化や広告のコストはかなり大きい(257頁参照)。この資本主義の人工的希少性に抗するには、マルクスの脱成長コミュニズムに基づいた潤沢な社会を創造する必要がある。コモンによって人工的希少性の、商品化された領域が減り、貨幣に依存しない領域が拡大する。そうすれば人々は労働へのプレッシャーから開放され、より生き生きとした生活を楽しむことができる。

 

 

 第七章では、脱成長コミュニズムのために具体的に何をすべきかが書かれている。その方途は「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、「エッセンシャル・ワークの重視」の五点である。

 一点目の使用価値経済への転換について、現在の資本主義社会のもとでは使用価値よりも価値のほうが重視されている。これでは、使用価値は蔑ろにされるばかりでなく、商品の質や環境負荷は二の次になる。そうすれば、マスクを価値増殖のために海外生産に頼っていた日本がいざパンデミックに遭遇したらマスク不足に陥ったように、危機に直面したときに致命的となる。使用価値を重視する経済に転換して、生産を人々の基本的なニーズを満たすように自己抑制することが大切である。

 二点目の労働時間の短縮について、使用価値経済への転換により、金儲けのためだけの生産が、社会の再生産にとって意味のない仕事が減ることになる。マーケティングや広告、パッケージング、コンサルティングなどは不要となる。現代社会の生産力はすべての人々の生存を考えると十分に高いはずであり、必要のない仕事を削減しても社会の実質的な繁栄は変わらない上に、むしろ人々の生活のためにも、地球環境のためにも好都合である。我々の労働時間削減のためのオートメーション化も、資本主義のもとでは我々は失業を恐れるので脅威となってしまう。また完全なオートメーション化によって労働時間をなくすという考えも地球環境に壊滅的な影響をもたらすので問題である。二酸化炭素排出量を減らすための生産の減速を我々は受け入れなければならないからこそ、使用価値を生まない不必要な仕事を削減しなければならない。

 三点目の画一的な分業の廃止について、人間らしい生活を取り戻すために労働に伴う苦痛を減らし、労働そのものを創造的な、自己実現の活動に変えていく必要がある。労働の創造性と自律性を取り戻す第一歩としてマルクスは分業の廃止を挙げている。そして晩期マルクスの脱成長の立場から、画一的な分業をやめれば経済成長のための利益や効率化よりもやりがいや助け合いが優先されるので、経済活動の減速が期待できる。

 四点目の生産過程の民主化について、使用価値に重きを置きつつ、開放的技術を導入して労働時間を短縮する「働き方改革」を実行するためには労働者たちが生産手段を民主的に管理する「社会的所有」が必要となる。こうすることで、より環境負荷の少ない選択がなされるばかりでなく、意思決定が減速されるので経済活動を減速させることができる。利潤のための素早い意思決定は非民主的な決定であり、マルクスに言わせれば「資本の専制」である。ちなみにソ連は意思決定の減速とそれに伴う経済活動の減速を受け入れられなかったので、官僚主導の独裁国家になってしまった。また生産過程の民主化は社会全体の生産を変えることにもつながる。利潤をもたらす新技術や知識の独占を禁止すれば、それらが持つラディカルな潤沢さを回復でき、独占に伴う弊害も取り払うこともできるので更なるイノベーションにつながるかもしれない。

 五点目のエッセンシャル・ワークの重視について、エッセンシャル・ワークは社会の再生産にとって必須のものであり、使用価値が高いものを生み出す労働にほかならないが、機械化が困難なので生産性が低く高コストなものとみなされ、理不尽な改革やコストカットが断行されてしまう。一方、マーケティングや広告、コンサルティング、金融業や保険業といった仕事は一見重要そうに見えても、社会の再生産そのものにはほとんど役に立ってはいない。これらは使用価値を生み出さない、いわゆるブルシットジョブなのであるが、高給なので人が集まってしまう。使用価値を重視する社会、つまりエッセンシャル・ワークがきちんと評価される社会へ移行しなければならない。エッセンシャル・ワークは低炭素で低資源使用なので、そのような社会は地球環境にとっても望ましい。エッセンシャル・ワーカーだけで事業を継続できるということも近年証明されている。

 

 

 第八章では、バルセロナ市における合理的でエコロジカルな都市改革の動きが晩期マルクスの視点を通して評価されている。バルセロナ市では「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」というモットーを掲げて、気候変動を食い止めるための、綿密な分析と具体的な計画を備えたマニフェストである「気候非常事態宣言」を掲げている。これは新自由主義グローバル化の矛盾に抵抗するために市民が10年に及び進めてきた草の根の取り組みが実を結んだものである。その取り組みの根底にはワーカーズコープなどの協同組合、社会連帯の伝統があり、その運動は水、電力、住宅などをめぐるそれぞれの社会運動が気候変動問題を軸として形成された横の連帯である。ここに掠奪や収奪の経済モデルから持続可能で相互扶助に重きを置いた参加型社会主義への転換の第一歩があると筆者は指摘している。またバルセロナ市のような取り組みをする革新的な自治体は世界中に広がっており(この国際的に開かれた自治体主義をミュニシパリズムと言うが)、それらは負担を外部化する社会の犠牲となってきたグローバルサウスにおけるグローバル資本主義に対する抵抗運動(気候正義や食料主権の運動など)から積極的に学んでいるという。このバルセロナ市における事例を通じて筆者は従来の左派の対案は一見革新的であるもののそれらは実は資本主義を結局は受け入れる保守的なものであると批判し、気候危機の時代には資本主義から抜け出して、脱成長によってラディカルな潤沢さを回復させることが晩期マルクスからの真の対案であると主張している。そして信頼と相互扶助を基礎に、政治、経済、環境の三位一体の刷新が、つまり国家の力を前提にしつつも、コモン(生産手段の水平的な共同管理)の領域を広げることで、脱炭素化を推進するとともに、民主主義を生産の次元へと拡張し、ミュニシパリズムや市民議会などの市民が主体的に参画する民主主義を実現させることが必要だと述べている。