akkiy’s 備忘録

主にインスタで載せ切れなかった読書記録とか。

【読書記録】「本心」(著:平野啓一郎) メモ全文

インスタの方で載せ切れなかった「本心」(著:平野啓一郎)のメモなど。

 

 

 

以下、印象に残った箇所やメモなど。(ネタバレ注意!)

 

「プロローグ」
 一度しか見られないものは、貴重だ。
 月並みだが、この意見には、大方の人が同意するだろう。
 とすると、時間と不可分に生きている人間は、その存在がそのまま、貴重だと言える。なぜなら、生きている限り、人は変化し続け、今のこの瞬間の僕は、次の瞬間にはもう、存在していないのだから。
 実際には、たったこれだけのことを言う間にも、僕は同じでない。細胞レヴェルでも、分子レヴェルでも、それは明白だ。
 もっと単純に、僕が今、死にかけていると想像したなら? 僕は現状に留まれない。病状は刻々と悪化し、血圧が下がり、心拍も弱くなって、結局、僕は終わりまで言い果せることなく、最後の究極の変化を──つまり死を──迎えることになるだろう。
 たった一行の文章の中でも、人間は変化しながら生きている。

 こうした考えに、果たして人は、耐えられるのかどうか。──
 今、玄関先で見送った幼い子供の姿は、もう二度と見られない。学校から戻ってきたその子は、朝と似た、しかし、微かに違った存在なのだから。
 僕たちは、その違いが随分と蓄積されたあとで、ようやく感づくのが常だ。
 本一ページ分のインクの量を、僕たちは決して感じ取ることが出来ない。
 しかし、一万冊分の本のインクなら、身を以て実感するだろう。
 変化の重みには、それと似たところがある。勿論、目を凝らせば、その微々たるインクが、各ページに描き出しているものこそは、刻々たる変化だ。

 人間だけではない。生き物も風景も、一瞬ごとに貴重なものを失っては、また、入れ違いに貴重なものになってゆく。
 愛は、今日のその、既に違ってしまっている存在を、昨日のそれと同一視して持続する。 鈍感さの故に? 誤解の故に? それとも、強さの故に?
 時にはそれが、似ても似つかない外観になろうとも、中身になろうとも、或いは、その存在自体が失われようとも。──
 それとも、今日の愛もまた、昨日とは同じでなく、明日にはもう失われてしまっているのだろうか?
 だからこそ、尊いのだと、あなたは言うだろうか。
→プロローグ全てが名文だった。

 

 

第二章「再会」
母への呼びかけ以外には、決して口にしたことのなかった「お母さん」という言葉を、母のニセモノに向けて発しようとすることに対し、僕の体は、ほとんど詰難するように抵抗した。それによって、ニセモノになるのは、お前自身だと言わんばかりに。 僕は死後の生を信じないが、もし僕が先に死んで、母が僕ではない誰か──何か──に、「朔也」と呼びかけているのを目にしたならば、いたたまらない気持ちになるだろう。
→分人主義的な考え方

 

僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは、僕は死ぬ、という言明と、一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ、時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして、「生きる」という言葉が必要なのだろうか?

 

背後にすぐに、たった独りになってしまう、という孤独が控えている時、人は、足場が狭くなる不自由よりも、とにかく何であれ、摑まる支えが得られたことの方を喜ぶものだろう。

 

 

第三章「知っていた二人」
空は西から赤みが差しているが、頭上にはまだ暗みきれない青空の名残があった。人のいないプールは、底からライトで照らし出されていて、その色は、沈みゆく太陽が、うっかり回収し忘れた午後の光のようだった。

 

 

第九章「縁起」
勿論、どんな境遇にいようと色んな人間がいる。金持ちがいつも知的で優しいわけではないし、貧乏人が皆、愚かで意地悪だとも言わない。しかし僕は、彼らとの会話に感じた退屈を、何かこの階層に特有なことのように感じるのを禁じ得なかった。僕は、自分が一生、こうした毎日を過ごすことを想像して、耐え難い気持ちになった。帰宅後は、ネットの世界に逃げ込めるだろうが、それでバランスが取れるのだろうか?

 

 

第十章「<あの時、もし跳べたなら>」
誰もが、なにがしかの欠落を、それと「実質的に同じ」もので埋め合わせながら生きている。その時にどうして、それはニセモノなんだ、などと傲慢にも言うべきだろうか。

 

 

第十三章「本心」
誰もがその行動を起こせるわけではないし、起こしても、現実がすぐには変わらないこともある。何度も戦って傷つき、『もう十分』という人もいますね。僕の文学は、もし、そういう人たちのための、ささやかなものだったと見做されるならば、それは喜びです。」

 

僕があの時、〝自由死〟の希望を聞き容れていたなら、母は死ぬ前に、自ら僕の出産を巡る経緯を、話すつもりだったのかもしれない。それは、義務感からというよりも、ただ、聴いてもらいたかったからではあるまいか? 他でもなく僕に! そして、僕が母の〝自由死〟の意思を、闇雲に拒絶することなく理解し、その話に耳を傾けていたなら、その時こそは、母は〝自由死〟の意思を翻していたのではなかったか?……


何のために存在しているのか? その理由を考えることで、確かに人は、自分の人生を模索する。僕だって、それを考えている。けれども、この問いかけには、言葉を見つけられずに口籠もってしまう人を燻り出し、恥じ入らせ、生を断念するように促す人殺しの考えが忍び込んでいる。勝ち誇った傲慢な人間たちが、ただ自分たちにとって都合のいい、役に立つ人間を選別しようとする意図が紛れ込んでいる! 僕はそれに抵抗する。藤原亮治が、「自分は優しくなるべきだと、本心から思った」というのは、そういうことではあるまいか。……