インスタの方で載せきれなかったメモなど。
58 「法は崩壊するのか 国連憲章と憲法九条をめぐる理想と現実」(松田浩道 国際基督教大学教養学部准教授)の論考が面白かった。
現今の国際情勢(ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザのジェノサイド、米国・イスラエルによるイラン侵攻など)を鑑みると、国連憲章や憲法九条が掲げる「武力の行使を慎む」「戦争を放棄する」といった理念は無力なように思われる。しかし、だからと言って法の支配が崩壊したという訳ではない。国際法の執行にも限度はあるが、国際法違反が常態化しても、違反に対する批判が起こる限り、国際法は法規範としての意味を持ち続けるのだ。逆にその批判が起こらなくなった時に国際法はその意味を失い法の支配は完全に崩壊するのだ。
カントの唱えた永久平和は、南原繁によれば不可達成的理念である。しかし止むことのない戦争の只中であっても不断の努力を傾けるべき政治上の「最高善」である。国連はいかに欠陥があっても繰り返し改善を図るべき政治組織である。
理想を高く掲げて、その理想に照らして現実を徹底的に批判し(=クリティカルシンキング)、より良い世界を目指す理想主義的現実主義が求められるのだ。
84 「リベラルが高市を選んだ グローバルに政治現象を読む」(大澤真幸 社会学者)
2024年のアメリカ ニューヨークの下院議員選と大統領選にて、リベラルな有権者が下院議員選ではかなり左よりな民主党のアレクサンドリア・オカシオ=コルテス(AOC)に投票すると同時に、大統領選ではトランプに投票したという事例が多くあった。この背景には、どちらの政治家の発言も率直で「偽善」がないという「誠実さ」があると有権者に感じられたという事情がある。
またリベラルの理念は純粋に極限まで現実化できないので、必ずそこから抜け落ちてしまう人々が出てくる。その意味でリベラルの理念そのものに内在的な矛盾があり、欺瞞的、偽善的な側面がある。この矛盾に対する疑念や防御反応は「道徳の不在」に対する不安という形をとる。リベラルが推進している「寛容な社会」のさらにその先に予感される道徳の真空地帯に対して保守派は恐怖を抱いている。そんな保守派に対しては、伝統的な道徳の復活や保守を訴えることよりも、リベラルな理念の内在的な矛盾を提示して否定し停止させることのほうが魅力的に映る。今日の米国の右派はこのように動いている(むしろ伝統的な道徳は時代遅れで恣意的なものであると多くの人に見なされており右派自身もそう認識している)。
ここにおいて、リベラル派の実践や価値観を嘲笑し貶める者が同時に道徳の擁護者になるという逆説が生じる。「トランプ」なる人物はリベラルの外部に突如として現れたのではなく、リベラルがその極限に生み出した「モンスター」であり、リベラルが目指している許容的な社会の誇張された真実である。
日本においてもリベラルが保守派を選ぶという現象が2026年の衆院選で見られた。有権者の多数派はリベラルだが、その多くが高市自民党に票を入れたのだ。これは政策を選択した結果でもなく、また単なる推し活でもない。高市がトランプ的な振る舞いを(ごく微弱にだが)発揮させたことに加えて、「日本列島を、強く豊かに。」という決して現実にはならない幻想のユートピアを提示して、「推し活」の対象となりえたことが背景にある。翻って、リベラル勢力はこのユートピア的なビジョンを提起すべきだったのに、それをしなかった。現実化しうる確たる根拠を持ったユートピア的な共同性についてのビジョンを提示しなかったことにリベラル派の敗因がある。
215~ 夜店 「支持と抵抗の経験史」(佐々木啓 東洋大学文学部史学科教授)
1920年代から1930年代にかけて、なぜ大正デモクラシーが道半ばで行き詰まり、国家主義の暗黒時代への反転が起こったのか。
・「上から」の社会統制という見方があった
上からの厳しい弾圧により、被抑圧者たちによる大正デモクラシーの運動が押しつぶされた。またそのような弾圧は、男子普通選挙の導入(=社会の構成員として下層の男性を承認)、労働争議調停法や小作調停法の施行(法的な承認ではなく「調停」により階級対立を「解決」する仕組みの導入)といった懐柔的諸施策と並行して進められた。
・「下から」の軍国主義への支持という見方もある
「合理」「理性」「西欧」を掲げる大正デモクラシーには「非合理」「情念」「土着」の伏流が存在していた。農村の民衆たちは、政党政治を通じた一般的な政治活動ではなく、皇国観念の復活や自力更生による自己改造に、資本主義の矛盾からの解放を見出すようになり、このうねりが1930年代以降のファシズム化につながった。(鹿野政直の説)
→「下から」の動きには、厳しい生活からくる民衆たちの行き場のない不満と体制への疑念が横たわっていた。この不満を集約し形にする数少ない組織が、国家主義団体だった。
→これにより求心力を発揮した挙国一致体制やこの延長にある現実の戦争は、結局民衆の不満の解消にはつながらなかった
→民衆における「ダマサレタ」という経験につながる。
しかし民衆が戦時体制の入り組んだ支配にいかに抵抗したか
→先述の民衆における「ダマサレタ」という経験。これは脆弱な自己を見つめ、自己を改造する努力を志向する未来、「ダマサレナイ」未来を眼差すことにつながる。
→戦後の「下から」の要求を束ねる労組や左翼政党の伸長は、戦前戦中の国家主義運動の「粗暴」な回路により民衆の声が政治へとつながった動きの延長にある。
186 連載 戦争国家アメリカの平和
第3回「フランクリン・ローズベルトと第二次世界大戦」(阿部幸大 筑波大学助教)
冷戦期以降のアメリカにおける戦争のレトリック
=陸海軍に従事すること、あるいはべつの方法で国家に奉仕すること、それは、国民の”privilege”(「特権」ではなく「誇りに思える(proud)ような行為に従事するチャンス、(個人にとっての)名誉」という意味合い)にほかならない。
→それゆえに、戦争を回避することではなく、すすんで参戦し勝利することこそが、平和の条件である。戦争国家アメリカにとって、戦争は平和と同義になる。
そしてこのレトリックは、個人のために国家が犠牲になるという詭弁により支持される。(この兵士の命は(アメリカ市民にとって)われわれの命と同じく尊いものである、という民主的なプロパガンダにより作られた認識がある。)だからこそ、ひとりの兵士の命を救うためにほかの大勢が犠牲になる、というようなことが起こりうる。
8 リレー企画 夜の庭 茨城のり子を読む
『それを選んだ』 茨木のり子(1966)
退屈きわまりないのが 平和
単調な単調なあけくれが 平和
生き方をそれぞれ工夫しなければならないのが 平和
男がなよなよしてくるのが 平和
女が溌剌としてくるのが 平和
好きな色の毛糸を好きなだけ買える
眩しさ!
ともすれば淀みそうになるものを
フレッシュに持ち続けてゆくのは 難しい
戦争をやるより ずっと
見知らぬ者に魂を譲り渡すより ずっと
けれど
わたくしたちは
それを
選んだ