akkiy’s 備忘録

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【読書記録】「満州事変:政策の形成過程」(著:緒方貞子) メモ全文

インスタの方で載せ切れなかった「満州事変:政策の形成過程」(著:緒方貞子)のメモなど。

 

 

以下、印象に残った箇所やメモなど。

 

 

39-42→原内閣当時の政党政治は意外なことに大衆不在の腐敗政治だった

 

47しかしながら、対外面における左右の主張にはかなり異なるものがあった。左翼が国家を超越した階級的連繫に現状を打破する行動源を求めたのに対し、右翼は国家的団結を重視した。国家主義者であった北や大川が国家権力の強化ならびに発展を主張したのは当然である。しかしながら社会主義者でもあった彼らは、資源に恵まれない日本を国際社会におけるプロレタリアと考え、日本の対外発展を国際社会における富の不均衡を是正する正当な行為であると説明した。北は「日本改造法案大綱」の中で、(中略)として、積極的に対外行動を起こすことこそ日本の活路であると主張した

 

49以上述べたように、北・大川ら国家社会主義者の帝国主義は、国家主義社会主義ならびに大アジア主義の融和統合されたものであり、その特徴としては、第一に国内における社会主義の実現は対外膨脹と不可分であること、従って第二には膨脹の結果生ずる利益の恩恵に国民大衆は浴する権利があると考えたこと、そして第三には日本の膨脹をアジア民族の解放と同一視したことである。事実、猶存社の結成後誕生した多くの国家主義団体は、対外膨脹と国民の利益との二重目標を掲げている。

 

 

238要するに関東軍の新国家建設案には、多くの矛盾が見られた。それには根本的には二つの相容れない要求に基いていたからである。関東軍は、被統治国の人心把握の目的のため、また自己の国家社会主義的思想のため、在満民衆の利益と福祉とを確立し、特に軍閥の圧政ならびに資本家の搾取からこれら民衆を保護することを標榜した。しかしながら、関東軍には日本の支配を満州に拡大しようとする帝国主義的要求もまた強く存在していた。そしてこの両者の配慮から、表面上は新満州国のもとで日本人と他の諸民族との平等を掲げながらも、実際上それに反するような対策をたてたのである。この矛盾にとんだ関東軍首脳の方針は関東軍幕僚間においても「軍ノ方針不明」との批判を生じ、昭和七年(一九三二年)一月二七日、片倉は参謀長の意を受けて「満蒙問題善後処理要綱」を作成し、部内説明用として二十部に限定してこれを配付した。

 

 

246-247満州に対する政策に関して関東軍が行った唯一にしてしかも重要な譲歩は、独立国の建設であった。この新国家建設の方策は、関東軍の思想傾向をもっとも明白に示す上でまことに興味深い。新満州政権が自治を目指す大衆運動の結果成立した独立国の形態を取り、国際条約によって日本との特殊関係を規定し、しかも国家社会主義的原理を大幅に取り入れる、というような方策は政府ならびに軍指導層の想像をはるかに越えたもので、彼らの到底承認出来ないところであった。元来、満州事変は、北や大川によって唱道され、経済的不況にあえぐ日本において何らかの行動を起すことによって現状を打破しようとする軍部革新運動の対外的な現われであった。従って、新満州国に具現された関東軍の政治社会理念は、日本の現存体制に反対してはぐくまれた反政党政治および反資本主義の思想の投影にほかならなかった。

しかしながら満州事変と、北および大川の指導下に発展した急進的革新運動は、思想面においてもまた行動面においても重要な相異があった。まず思想面については、石原と板垣を中心とする関東軍国家社会主義に影響されていたことは事実であるが、同時にまた彼らは差し迫った中国ナショナリズムの挑戦に直面して何らかの形でこれに理論的に対応しなければならなかった。これに対し北や大川の革新論は満足な解答を示さなかった。そこで関東軍は、満州在住日本人が提唱した「民族協和」思想を中国ナショナリズムに対するもっとも効果的な武器として採用したのである。満州在住諸民族の福祉を強調する政策は、関東軍の反資本主義に基くものではあったが、それと同時に現住民の支持を確保し、さらに隣接するソ連共産主義の影響をもあらかじめ防止しようとする点において満州の現状に則したものであった。東北行政委員会も、満州国も、またその後満州青年連盟を母体として生れた協和会も、すべて民族の協和と社会福祉とを謳ったが、これには在満諸民族の団結を破壊するナショナリズム階級闘争とに対抗する原理としての役割が課せられていた。

 

 

268-269日本政府は三月一八日満州国に対し、新国家成立の通告を受理した旨を伝えるにとどまった。この時点において、日本政府が満州国に対する承認を延期し得たことは無視すべきではなかろう。政府はここで一応列国との正面衝突を避け、その間に軍部に対する統制力を確保し、中国も列国も受け入れられるような方式で満州問題の解決を計ろうと努めた。その当時は、リットン報告が後に明らかに記したように、日本が満州に対する中国の主権さえ正式に認めれば、世界各国もまだまだ日本の満州支配を許容する意図を有していたのであるから、犬養内閣が対外的に得た小康状態を利用し、対内的に軍部強硬派を抑えることに成功すれば、満州事変を円満に終結させる可能性は僅かながら残っていたのである。

それでは犬養内閣の政治力は、右の目的を達成し得るほど強力なものであったろうか。昭和七年(一九三三年)二月の総選挙の結果、政友会は三〇四議席を獲得し、民政党の一四七議席をはるかに上まわる絶対多数を占めるに至った。しかしながら、軍部に対する議会の権力が弱化したばかりでなく、国民一般も次第に軍部を支持する傾向を示したため、犬養内閣のこの勝利をもってしても、その政治的基盤は十分に強固なものとはいえなかった。

満州事変以前から、国民一般は軍人や満州在住日本人が満州の危機に対処するため軍事行動に訴えなければならないと説くのに熱心に耳を傾けていたが、いよいよ行動が開始され、日本の軍事的成果が大きくあがるのを見ると、彼らは歓喜をもってこれを迎えた。そもそも満州における日本の権益擁護が強く主張されたのは、日本国内における政治的社会的情勢に不満を抱いていた国民が満州において日本の支配権を確立することによって、希望と繁栄ある将来が実現されることを期待したからであった。満州事変下において国内に軍需景気が起ると、国民一般はこれをもって満州が約束する莫大な利益を裏付けるものと考え、軍部ならびに満州事変に対する批判は影をひそめて行くばかりであった。また、一流新聞も満州における日本の軍事行動が自己防衛に基く正当な行為であるとして、完全支持の立場を表明した。軍部の横暴を正面から批判してきた朝日新聞でさえも、日本が長く中国の対日敵対行為に耐えてきた上、今また自己の重要権益を擁護するために行動しているという理由から、満州事変そのものは支持したのであった。反戦運動の動向を探知していた警察も、事変中日本共産党の協力機関である日本反帝同盟の活動および宣伝工作の影響はきわめて弱い、と報告した。

→国民の軍部への支持が後押し

 

 

283-284頻々たる暗殺の連続として、犬養首相が、遂に陸海軍人の一団のために兇手に斃れたことは、吾々の、国民と共に真に悲憤痛恨に堪へざる所である。日本に於ては今日まで、首相その他顕要大官の遭難決して珍らしい事ではない。然し今日までの事件は、何れも所謂暗殺の範囲を脱せざるものであって、不逞の徒が或は停車場に、或は邸宅の出入その他途上等に於て隙を窺って兇行を敢てしたものであるが、今回の事件は白昼公然として首相官邸に押入り、然も陸海軍将校等隊を組んで兇行に及びたりと言へば、暗殺というよりも一種の虐殺であり、虐殺といふよりも革命の予備運動として之れを行ったものと観なければならぬ。それは単に首相官邸のみならず、牧野内大臣邸、警視庁、日本銀行、政友会本部等々まで同様の兇行が加へられた事実に徴しても、左様言ふことが出来る。昨年来軍人間に政治を論じ、革命を云々するものあり、事態容易ならずとは吾々が屢々耳にせる所であった。然し吾々は断じて之れを信じなかった。軍隊及び軍人が政治に容喙する事は、直ちに軍隊及び軍人の潰乱頽廃を意味するものであり、羅馬、希臘の昔を論ずるまでもなく、日本に於ても史上の事実を歴々として指摘すべく、その間の事実に鑑み玉ひ、明治大帝が軍人に対する勅諭に於て「兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はず政治に拘らず」と戒められたるその大精神は、日本軍隊と軍人の間に徹底し、荷もそれに違背し奉る如き不逞の徒ありて、日本国軍のよって立つ精神的基礎に斧鉞を加へんとするが如きは、あり得べからずと思われたのみならず、上官の命は朕が命と思へと宣ひたるその精神を一貫して、命令と服従との縦の関係に於てのみ、日本国軍は厳粛にして尊貴なる存在であり、もし、軍隊と軍人との間に、政治を論じ時事を語りて、或は少壮佐尉官、或は下士官等が云ふが如く、横の関係が一旦発生するに於ては、帝政末期革命当時のロシアに於けるが如く、遂にその風潮が一般兵士に浸潤し、軍隊と軍人とは豺狼よりも嫌悪すべき存在となり、国軍自らまづ崩壊すべきことは必然である・・・・・国民の進むべき政治的進路は坦々として国民の眼前に展開されてゐる。それは立憲代議政体である。独裁政治が今日以上の幸福を国民に与ふべし、と想像し得べき寸毫の根拠もない・・・・・・此事件は昨秋より明白に予見せられたる事件である。その予見せられたる事件を傍観して今日の結果を招来した責任は何人にありや。検察当局なりや、政府当局なりや、将又検察当局と、政府当局との事実に於て如何ともすべからざる軍部それ自身なりや。国民は厳粛にそれを知らんことを要求する

→犬養の暗殺が重大な意義を有した理由について端的に述べている、福岡日日新聞の社説

 

 

291-292犬養内閣について注目すべきことは、在任中の六カ月間に政党から軍へと政治権力が移動したことである。

このような政治条件のもとにあって、満州に建設された新国家に対処しなければならなかった犬養内閣の取り得る措置は、まことに限定されたものであった。犬養内閣が満州国の正式承認を差しひかえたことは、せい一ぱいの試みであり、これにより、大陸発展を国際協調の範囲で達成しようとする従来の外交政策をともかく踏襲した。犬養内閣のもとでは外交政策上の大転換は行われなかったのである。しかしながら、軍部に対する統制を確立し、満州事変の解決を計るという組閣当初の目的を完遂するためには、恐らく次の二つの方法のいずれかを採らなければならなかったであろう。第一は、満州に対する基本方針を改め、中国ナショナリズムの要求を大幅に容認するような譲歩を行うことであり、第二は、正式の懲戒処分をも含む強硬措置により軍部に対する統制を確立することであった。満州事変の輝かしい成功は、そのいずれの実現をも著しく困難とした。そして、犬養内閣が突然の終りを遂げた結果、軍の政治権力の増大のみが決定的なものとして残ることとなったのである。

→軍部の台頭により外交政策も捻じ曲げられていった

 

 

350→内部では分裂していたものの対外的には統一体だった軍部。外部からの圧力が無い状態だとその支配権は拡大する一方、内部では指導権の所在を決める必要性は減少した

→やばくて草

 

352→政治謀略が是認されている政治制度のもとでは中央の統制の及ばない領域が広汎に存在していて無責任の体制が出来上がる