akkiy’s 備忘録

主にインスタで載せ切れなかった読書記録とか。

【読書記録】「カラヤン」(著:吉田秀和) メモ全文

インスタの方で載せ切れなかった「カラヤン」(著:吉田秀和)のメモなど。

 

 

以下、印象に残った箇所やメモなど。

 

カラヤン登場」
16-17つまり音楽は瞬間に生れ瞬間にすぎさる音の継起であると同時に、それらの瞬間の集合は、一つ一つの瞬間を加算したものでなくて「一つの時の流れの全体」でもあり、そのすぎさることと、一つにおいて全体であることと矛作した性格から、永遠にすぎさってやまない時間の不滅と永続の問題が生れる。だが、そういうことは、また、私たちが音楽をきいていつも経験している単純な事実――つまり、ある時に与えられ、二度と帰らない形ですぎさってしまった感激という形でしか、私たちは永続する感銘をもつことはできないのであって、いくら無限にくりかえされ、正確に同じものを何度も与えられても、それは永続する感銘になるとは限らない――という自明のこととして、私たちに答えが与えられてしまっているのだ。

 

 

「人気の秘密」
24どうして彼にそんな人気があるのか、もちろん素晴らしい指揮者だからである。彼の特徴の最大のものは、オーケストラの音の途方もない洗練、旋律の歌わせ方と劇的な盛上がりとの組合わせ、緩急のとり方などが水際立っている点にある。

 

 

カラヤン
28では、どうして、私はカラヤンをよくききにいったか?カラヤンの魅力はどんなところにあるのか?といえば、少なくとも今の私にとっては、彼の棒できくと、音楽がいつも楽々と呼吸していて、ちっとも無理なところがないというのを、まず、あげたいと思う。そうして、これは近年になると、ますます目立ってきた傾向と、私は思っている。

 

 

「オペラ指揮者としてのカラヤン
120そのあとのことは、くだくだしく辞典を書きうつしてみるまでもない。大事な点は、以上のように、十九歳で突然《フィガロ》の指揮をまかせられるということがあってから、一九四一年、つまり三十三歳になるまでは、ウルムだとかアーヘンだとか、ドイツの小都市の歌劇場にいて、オペラでみっちり腕をみがく時機をもっていたという事実である。カラヤン自身が、あるインタヴューでいっているように『もっとも感受性の鋭い青年音楽家としての十四年の歳月を、地方小都市でゆっくり勉強し、しっかり腕をみがく期間を持てたことがその後仕事をしてゆく上にどんなに役に立ったかわからない」のである。ひとは、とかく、カラヤンというと、早熟の才人で、ヴィーン、ベルリン、それからミラノ、ロンドン、パリとヨーロッパの大都市の檜舞台で華やかに活躍し、いつもセンセーショナルな話題をまきちらす人物というイメージを思いうかべてしまうわけだが、——また、そういう面も、彼にあるのは、何も私が裏書きする必要もないことだが――、しかしその前に十九歳で認められてから、二十歳台の全部と、そのあとの三年間、じっくり地方で実力を蓄えていたという事実を忘れてはいけないだろう。さっきのインタヴューの中でも、カラヤンは、そういう時機を持つことが、最近はだんだんむつかしくなってきたのを、若い世代の指揮者たちのために大変残念がっている。マーラーにせよ、フルトヴェングラーにせよ、ワルターにせよ、クレンペラーにせよ、ベームにせよ、そういう時代があったのに。

 

 

ザルツブルクの復活祭音楽祭」
142ところで、《カラヤンワーグナー》の特徴は、室内楽的な澄明さに到達したといっても決して過言でないほどの管弦楽の未曾有の精緻さと、これまたこれまでの《ワーグナー》ではあまり中心におかれていなかった歌唱のベル・カントと抒情の重視にあると言ってよいだろう。

 

 

「カザルスの死とカラヤン
254-255カザルスは、だが、どういう名手だったか?要は、彼はチェロを、コントラバスの小型で合奏には不可欠だが、ひく人は必ずしも自由に扱うとは限らず、ことに音程はとかく不正確な楽器——あのほとんどすべての楽器のために協奏曲を書いたモーツァルトが、この楽器のために書くのだけは断念したのは、そのためだという説もあるくらいだから、ヴァイオリンを大型にしたもの、つまりりっぱな旋律楽器たりうることを実証してみせた人だといえばよかろうか。カザルスが出て、楽器の世界におけるチェロの位置づけは革命的に変わった。

 

 

カラヤンと老い」
261私など、自分も知らぬ間に年をとってきている間に、「老いる」というのが決して生やさしいものでないのを、時と共に、痛感せずにいられなくなった。「経験によって磨かれた知性の高みから、人の世の営みを達観する老人の目」であるとか、「老人の白髪をいただいた頭の中には若い人に望むべくもない知恵が累積されている」とか、そんなイメージは、だんだん信じられなくなる。むしろ、その「老いたる賢者」の代表的存在みたいなゲーテその人が「老人とは、青春と壮年の痴愚をそのまま持ち続け、その上に老人の虚栄心が新しくつけ加わった存在である」といった、その言葉のもつ苦い真実こそ、思い当たるのである。

 

 

カラヤンの死」
265-266カラヤンと同じころローレンス・オリヴィエが死んだ。私のみた限り、それを扱った文章は、ほとんどみんな、この英国の名優の芸を語るのに終始していた。が、カラヤンの場合はちがう。まるでちがう。西独の代表的週刊紙『ディ・ツァイト」(DieZeit)を要約してみようか。
「この人ほど音の美しさに敏感で、それを極点まで追い、実現する力量をもった人はいなかった。その点、彼が今世紀きっての大指揮者だったことを疑うものはいない。だが、この稀有の才能も結局音楽を袋小路に導いてしまった。それに彼が真剣な関心をもち続けた音楽の複製工学の進歩も、音楽の民主化に役立つよりも、彼個人のあくなき権力志向、音楽市場に君臨しようという欲望の手段になりさがった。」
カラヤンは音楽の偉大な伝統を金貨に変え、音楽経験を高価な消費財の享楽にすりかえたとして、猛烈な非難攻撃をうけたが、それを通じて、ほかの誰よりも時代の動向、現代社会の性格を象徴する芸術家になったのだ。」
 私はこれに大筋で賛成する。逆にみれば、文句の余地のない名指揮者で終ったら、カラヤンカラヤンではなかったことになる。
 彼の経歴には何か不透明なものが残る。特に政治的には、ナチに二度も入党したりして(それで誰かを迫害した証拠もなかったそうだが)いちばん控えめにいってもオポチュニストと呼ばれても仕方あるまい。個人的欲望も巨大で、どこにいっても最高の地位、無制限の権力をほしがり、結局喧嘩別れに終る。
 しかし汚点のついた生涯、欠点の多い人だからといって、その人の芸術を悪ときめつけるわけにいかない。芸術は生活あってのものだが、人生が限りないように、芸術の根も深く微妙に大地に根をはっていて、芸術と人生の関係はとても簡単には割りきれない。

 

267カラヤンのスタイルはその後変りもしたけれど、彼を大向う目当ての虚しい華麗さを狙ったものと呼ぶのは余り正しくない。むしろ、彼は肩の力をぬいて楽々と自然体で演奏するタイプだった。そのため大作、力作をやると、淡々としすぎて拍子抜けする場合もあったくらいだ。反対に、この自然体で、世界一の性能を身につけたベルリン・フィルハーモニーと、たとえば『展覧会の絵』などやった時に、きくものの度肝をぬくような名演が生れるのだ。ムソルグスキーよりラヴェルよりの音楽といえようが、今世紀の管弦楽演奏の一つのクライマックスといってよかろう。