akkiy’s 備忘録

主にインスタで載せ切れなかった読書記録とか。

【読書記録】「読んでいない本について堂々と語る方法」(著:ピエール・バイヤール) メモ全文

インスタの方で載せ切れなかった「読んでいない本について堂々と語る方法」(著:ピエール・バイヤール)のメモなど。

 

 

以下、印象的な箇所やメモなど。

 

33 教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。

 

35 ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを〈共有図書館〉と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この〈共有図書館〉を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは〈共有図書館〉を構成している諸要素間の関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない。そしてこの意味で、大部分の書物を読んでいないということはなんら障害にはならないのである。

一冊の本は、われわれの視界に入ってきた瞬間から未知の本ではなくなる。その本に関して何も知らなくても、それについて夢想することも、議論することもできる。教養ある、好奇心旺盛な人間なら、本を開く前から、タイトルやカバーにちょっと目をやるだけで、さまざまなイメージや印象が沸き起こるはずである。そしてそれらのイメージや印象は、一般的教養がもたらす書物全般についての知識に助けられて、その本についての最初の見解に変わることだろう。このように、本との出会いというものは、どんなに取るに足らないものであれ、またたとえ本を開くにいたらないにせよ、本を真の意味でわがものとする第一歩となりうるのである。極論すれば、一度でも出会ったあとに未知でありつづけるような本はひとつもないといっていい。

→共有図書館という全体観を踏まえる重要性

 

43〜→著作を読んでいない作家などに捧げたヴァレリーの文章が面白い、自分が読んでいないことを棚に上げて、かつ巧みに言辞を弄してその作家を論じている

 

86→われわれが話題にする書物は全て〈遮蔽物(スクリーン)としての書物〉である、書物についての言説の大部分は実は他の書物について発せられた他の言説であり、それもまた別の言説に関するものであり、この連鎖に際限が無い

 

96→読者をする読者は全員、読んだ本のいくつかの断片しか記憶していない、どこかを必ず忘れてしまうもの

 

102 読書は、何かを得ることであるよりむしろ失うことである。それは、この喪失が流し読みのあとに来ようと、人から本の話を聞いたあとであろうと、漸次的な忘却の結果であろうと同じである。このように考えることは、われわれが読んでいない本について語るという苦しい状況に追い込まれたときに、そこから脱するための戦略を練るさいの大きな心理的原動力となる。

 

135→〈内なる書物〉とは、我々の内部にある、何らかの未知の本に出会った時にその読解の仕方を無意識的に方向づける表象の総体、知らず知らずの内に抱いている全体観のこと。何らかの未知の作品を土台に論じる時もこの作品は内なる書物に規定される考察の枠のなかで溶解する、またこれによって無知な作品の持ちうる無数の豊かな解釈のひとつに接近できる

 

160 したがって、読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部には立ち入らないこと、これである。作家は自分の本についての要約や詳しいコメントなどまったく期待していない。それはむしろしないほうがいい。作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことなのである。

→作家とその読者の間でそれぞれ持っている内なる書物は異なるので、作家の著作について両者が語り合うとかえって両者の見解が食い違うことがよくある

 

171 われわれは、この時間と言語の人工的な停止をつうじてはじめて、相手の内奥に隠されたテクストを不動の状態で把握できる。このテクストは、ふつうの世界では、たえず変容を続けていて、その動きを止めることも、自分のテクストを相手のそれに一致させることもできないのである。まだ〈内なる書物〉の方はわれわれの幻想に似て比較的固定している。しかし、われわれが話題にするのは〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉である。こちらの方は、のちに見るように、不断に変化しているので、いくらその変化を止めようと考えても無駄なのである。

したがって、二人の人間のテクストを一致させるという夢は、ファンタジーのなかでしか実現されない。現実生活のなかでは、われわれが書物について他人と交わす会話は、残念ながら、われわれの幻想によって改変された書物の断片についての会話である。つまり、作家が書いた本とはまったく別のものについての会話にほかならない。作家自身でさえ、読者が彼の本について語ることのなかに自分を認知できるということはまれなのである。→二人の人間の書物に関するそれぞれの認識は一致することはない

 

177 本について語ること、ないし書くことと、本を読むこととの違いは、前者には、顕在的であれ潜在的であれ、第三者が介在するということである。この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである。これは第二部でもいくつかの具体的な状況をめぐって指摘したことだが、本について語るときに問題になるのは間主観的な関係である。すなわち、〈他者〉との関係――それがどのようなものであろうと――が書物との関係にたいして優位に立つような心理上の力関係である。そこでは書物との関係じたいが結果的にそれによって影響を被らざるをえない。

 

181 書物というものはたいていの場合、もっと単純に、われわれが知っている現実の書き手の延長上にあるのである(その人間をよく知る必要があることはいうまでもない)。したがって、デンプシーのように、本の著者と付き合うだけでその本がどのようなものかを知ることはまったく可能なのである。

 

182 ある書物がどのようなものであるかを知り、それについて語るのに、その書物を読んでいる必要はいささかもない。読んでいなくても、一般論的なコメントだけでなく、踏み込んだコメントすら可能である。というのも、書物は孤立しては存在しないからだ。一冊の書物は、私が〈共有図書館〉と呼んだ大きな全体のなかの一要素にすぎないので、評価するのにそれをくまなく読んでいる必要はない(デンプシーには彼が語っている本がどんなジャンルに属しているか分かっている)。大事なのは、それが〈共有図書館〉のなかで占める位置を知ることである。その位置は、ひとつの単語がある言語において占める位置に似ている。一個の単語は、同じ言語に属する他の単語との関係において、また同じ文中にある他の単語との関係において位置づけられてはじめて意味をもつ。

問題なのはけっしてしかじかの書物ではなく、ひとつの文化に共通する諸々の書物の全体であって、そこでは個々の書物は欠けていてもかまわない。つまり、〈共有図書館〉のしかじかの要素を読んでいないと正直に認めていけない理由はどこにもないのである。その要素を読んでいなくても、〈共有図書館〉全体を眼下におき、〈共有図書館〉の読者のひとりでありつづけることはできるからだ。この全体が個々の書物をとおして顕現するのであって、個々の本はいわばその仮の住まいにすぎない。したがって、デンプシーの同僚の本についての評価は、主観的評価として、まったく容認できる性質のものである。彼がたとえこの本を読んだとしても、彼の評価はさほど変わらないはずである。

→共有図書館という全体観を踏まえていれば個々の書物を読まずとも評価できる

 

183 しかじかの本を読んでいないとはっきり認めつつ、それでもその本について意見を述べるというこの態度は、広く推奨されてしかるべきである。この態度は、先の例からも分かるように、積極的な意味をもっている。にもかかわらずこれがほとんど実践されないのは、本を読んでいないことを認めることが、われわれの文化においては、重い罪悪感をともなうからである。

→確かにと思った

 

187 教養は――そしてわれわれが与えようとする教養のイメージは――、他人および自分自身からわれわれを隠す保護膜である。教養の欠落部分に直面するという日常的な状況から脱するための適切な方策を見出そうとするなら、この恥ずかしさの感情の存在を知り、その基盤となるものを分析しなければならない。それは書物の断片でできた教養という不連続な空間で生き延びる道である。この空間においては、われわれの深層のアイデンティティーが、あたかも恐怖心にとらわれた子供のそれのように、不断に危険にさらされるのである。

 

193-195 したがって、リングボームがある過ちさえ犯していなかったら、何の問題も起こらなかったはずである。ところが彼は、このゲームが秘めている暴力性や、先述した心理的葛藤のせいで、『ハムレット』に関する自分の知識についてあいまいさを残さないという過ちを犯すのだ。そうすることで、彼は、われわれが自分と他人とのあいだに普通に成立させている決定不能な文化空間から自らを排除するのである。この空間において、われわれは、自分自身にも他人にも一定範囲の無知を許す。というのも、あらゆる文化は数々の空白や欠落の周りに構築されるということをよく知っているからである(ロッジは先の引用で「教養のギャップ」について語っている)。しかも、この空白や欠落は、別のたしかな情報を所有する妨げとはならない。書物に関する――いや、より一般的に、教養に関する――このコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。これはまた、幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間、その主要なルールが守られなければ続けられないようなゲームの空間である。この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されなくなると、また出された問いにはっきりと答えなければならなくなると、この空間の内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。

→ヴァーチャル図書館とそのルールについて

 

195 彼が暴いたのは、じつは教養の真実とでもいうべきものである。つまり、教養とは個人の無知や知の断片化が隠蔽される舞台だということだ。

 

200 このように、読んでいない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放するべきである。これは家族や学校制度が押し付けてくるイメージであり、われわれは生涯をつうじてこれにどうにか自分を合致させようとするが、それは無駄というものだ。われわれには他人に向けた真実より、自分自身にとっての真実のほうが大事である。後者は、教養人に見られたいという欲求——われわれの内面を圧迫し、われわれが自分らしくあることを妨げる欲求——から解放された者だけが接近できるのである。

 

202 本というものはなるほどその周りで語られることに影響を受けないではいない。ほんの短い会話によってすら変えられるのである。このテクストの可変性は、〈ヴァーチャル図書館〉のあいまいな空間の不確定性を示す二つ目の特徴である。一つ目は、本について語る者がじっさいにその本についてもっている知識の不確定性を示すものだったが、この二つ目は、未読書について語るための戦術を考えるさいの決定的要素となる。固定した書物イメージではなく、流動的な状況のイメージをもとに考えるだけに、きわめて有効な戦術を練ることができるのである。この状況では、議論の担い手たちは、とくに自分の観点を押しつけることができる場合は、書物のテクストそのものを変化させることができるのだ。

→なるほどと思った

 

224 書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる——リュシアンよりも決然と——ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。バルザックのヒーローたちは、〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性を見事に示している。〈ヴァーチャル図書館〉は、本を読んでいるいないにかかわらず、読者を自称する人間たちの意見に惑わされることなく自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせて、いとも容易に変化するのである。

 

239 このように、われわれが話題にする書物というのは、客観的物質性を帯びた現実の書物であるだけでなく、それぞれの書物の潜在的で未完成な諸様態とわれわれの無意識が交差するところに立ち現われる〈幻影としての書物〉である。この〈幻影としての書物〉は理論的には現実的物象としての書物から生まれるはずのものだが、われわれの夢想や会話というのは現実の書物よりもこの〈幻影としての書物〉の延長上に花開くのである。

 

訳者あとがき

279→書物至上主義は権威主義と結びつく

 

295→筆者は本書で示した自らの主張を本書の中で身をもって実践している