【備忘録】「日蓮聖人真蹟印刊行の概観」 兜木正亨
「日蓮聖人真蹟集成 第1巻」の解説に載ってあった。備忘録として。
日蓮大聖人の御真筆をまとめた書籍は本書「日蓮聖人真蹟集成」(昭和51-52年)に加えて、
- 大正時代の神保版「日蓮聖人御真蹟」
- 昭和27~34年の片岡版「日蓮大聖人御真蹟」
- 昭和42年の大石寺版(大石寺蔵の全真蹟)「大石寺蔵日蓮大聖人御真筆聚」
- 昭和24~43年の稲葉版「現存日蓮聖人御真蹟」
があるらしい。
以下、「日蓮聖人真蹟印刊行の概観」の全文。テキスト認識で書き起こしたため誤字があるかも。
日蓮聖人真蹟影印刊行の概観
兜木正亨
一
ここにいう真蹟とは、遺文・曼陀羅本尊・要文抄録・書写本、五時教判や年表のような表示を内容とした図録とよばれているもの、さらに上記の断簡をふくめて日蓮が自書したものすべてをいう。
真蹟を影印で見られることは、実物がいつでも見せてもらえるものでないだけに随時随所に披見できるという利点が与えられ、また真蹟研究の門戸が開かれることでもある。写本遺文時代に生存した先師たちが、真蹟との対校に熱情を傾けた時代を想うと、まことによき時代に遭遇したことを感謝しなければならない思いがする。
真蹟の影印刊行事業は大正の初期にはじまる。はじめは主要遺文を内容として刊行されたが、それが口火となって、遺文その他の全真蹟を刊行しようとする方針で計画されるようになって、いくたの苦難にあい、挫折したこともあったが、それをのりこえてこの志願をほぼ達成されたのは昭和二十年代のことであった。大正時代の事業は日蓮宗の神保弁静師を中心に行われ、昭和の大成は神保師の遺業をついで昭和の初めにこれに着手した在俗信者片岡随喜氏の願業であった。しかし片岡氏の偉業も富士大石寺所蔵分は最終的に収録を許可されずにおわったが、それから約二十年ののちに、門戸を固く閉じていた(後記のような一部の刊行はあったが)大石寺もまた寺蔵の全真蹟を刊行するにいたった。これより先き名古屋に居住した俗の稲葉与八氏は昭和二十三年に現存真蹟の刊行を発願してこの事業を進め、現存の大半を刊行されたが、あと約半数をのこして完成を見ずにおわっている。真蹟の総合的な開版事業は規模と内容は同じではないが、この四者に代表され、その二者を合せれば全影を見られるまでになった。ほかに一山一寺に所蔵する真蹟の刊行が大正・昭和にかけてなされ、また前記の総合刊行の中から部分的に別行開版されているものもある。つぎにこれらの刊行経過と内容について概説する。
二
真蹟を大量にとりまとめた規模の大きいコロタイプ版図版刊行は、大正二年から翌三年にかけて発行された『日蓮聖人御真蹟』全二十軽にはじまる。これ以前には部分的な刊行もなかった。二六五×三八〇センチ横綴じの本書は第一・二輯に立正安国論、最後の第十九二十輯には観心本尊抄を収録し、その間の十六冊に現存真蹟遺文宝庫である中山法華経寺所蔵の主要書と池上本門寺玉沢法華寺所蔵の撰時抄・兄弟抄、それに報恩抄の断簡などを併せて全四十七書を内容とする。本書の編集人はそのころ日蓮宗宗務総監の任にあった神保弁静師である。発行所は東京芝二本榎一丁目にあった日蓮宗宗務院におかれていた。大正五年に総監職を辞任した神保師は、前書に載せることのできなか京都の寺その他に所蔵する真蹟を前書の続編として刊行することを計画し、ほとんどその写真を撮りおわって編集にとりかかっていた矢先に、大正十二年の関東大地震にあい、火災のために作製した写真原版はすべて烏有にしてしまって惜しくもこのことは挫折した。再度の撮影やり直しができなかったことは、そのころ散在する真蹟撮影の事業がいま考えるほど容易でなかったことがその理由のひとつになっていたようである。
その後に後記するような一山一寺所蔵の真蹟がいくつか刊行されているが、総括的な規模で真蹟刊行を計画したのが立正安国会片岡随喜氏発願の真蹟開版事業である。片岡氏は神保師の遺志をついで昭和三年からこの事業に着手し、聖教殿に格護する聖教殿は山田三良博士が建築実行委員長となって、大正十五年十一月起工、昭和六年四月完成した真蹟安全保存を目的とする耐震火災建造物中山法華経寺蔵の真蹟総計八〇点をはじめ、私集最要文といわれる法華経八巻と開結二経の行間と紙背に経論の要文を書き入れた注法華経と通称される日蓮の持経、そのほか全国に散在する日蓮真筆のすべてを図版刊行する大事業にとりかかられた。そして七年の年月を要して撮影を完了されたが、大石寺所蔵のものは最終的には許可をえることができなかったと聞いている。山中喜八氏はこの真蹟集の撮影編集責任者としてその任にあたられた。
安国会の片岡氏の真蹟出版事業は善本の全真蹟集を作ってこれを普及し、教学の基礎資料を提供することを目的としたもので営利を無視した刊行事業であった。ところが第二次世界大戦前後の事情はこれを順調に進捗させる状態ではなかった。そのような悪条件のなかで、真蹟への情熱によって、いくたの苦難を克服して刊行されたのが安国会の『日蓮大聖人御真蹟』である。ここに収録された真蹟は巻子本四十八巻と大和綴冊子装本二十二冊、ほかに御本尊集が三百二十三枚に仕立られている。緞子布表紙をつけた巻子本や同表装の冊子本で原寸大から縮小版をとりまじえて寸法は一定ではない。この一部を作製するのに今では技術的にも経済的にも困難事となっているのが実情である。本書の内容は巻子仕立は(一)法華経十巻と、(ニ)口三十八巻には立正安国論ほか五十八書、図録六点、御遷化記録等を収録する。冊子装には原寸大の(一)観心本尊抄を別冊本一冊とし、(ニ)つぎの十冊に現存遺文真蹟、安国論の重出別筆断簡をふくめて百十五点を収載する。このなかには真蹟の全篇現存するのが三十六点、、そのほかは一部缺失または数紙・数行を現存する書となっている。(三)これにつぐ二冊は、これまでの刊行遺文に収録されていない断簡類とするもので、各冊四十三点と五十四点の計九十七点を収めている。(四)以下の六冊には二十一点の写本と抄録類を収録し、末尾に「御遺物配分事」と「身延輪番帳」を併載する。(五)つぎの二冊は要文断簡類で、四十点と三十五点を分載する。最後の一冊は、直弟子日曜日朗・日興、富木日常から江戸期の不受不施日樹まで三十三人が書いた曼陀羅本尊を収録する。この全書の発行所は千葉市長洲町一丁目宗教法立正安国会で、昭和二十七年から同三十二年にわたって刊行された。この全書の刊行は日蓮の真蹟研究への画期的な偉業であり、大きな光明となった。
安国会の刊行と前後して、名古屋市千種区田代町稲葉興八氏が発願発行人となり、山川智応氏が編集者となって、また別に昭和十六年に「現存日蓮聖人御真蹟護持会」を作り、稲葉氏が発願者であると同時に経営主任になって、これまた私財を投入して『日蓮聖人御真跡』の出版を企画した。しかし翌十七年一旦停頓、昭和二十三年再出発して、翌二十四年に弘安部第一を発行、翌二十五年に二帙、それより三十一年まで毎年一帙を刊行した。この間に出版されたのは、観心本尊抄、立正安国論、撰時抄と弘安部一二、文永部一建治部一の全八帙であった。その後八年の時をおいて三十九年に貞観政要、四十一年から四十三年まで文永部二三、建治部二の四帙を加えて全十三帙とした。しかしこの事業も稲葉氏の死によって中絶し、発行を北望社に移したが現存真蹟のすべてを収録することができず、予定のなかばにして断絶したことは惜しまれる。本書の既刊真蹟点数は一〇八点となっている。
片岡氏が発願して刊行した前記の安国会本に収録されなかった大石寺に所蔵する真蹟は、点数からいえば遺文・要文・断簡録を合せて四十八点で、数量から見て多いというのではなく、その中の一部分は影印刊行されてはいたが、しかしその全体はなお隔絶状態におかれていた。真蹟が文化財に指定されることになったのを機会に、寺蔵の全真蹟が『大石寺蔵日蓮大聖人御真筆聚』原寸版四帖百五十部限定として昭和四十二年に大石寺から刊行された。
日蓮の真蹟は、真筆集の刊行後にもいくつか発見されている。また今後も発見される可能性がある。ともあれ大石寺蔵の真蹟が刊行されたことによって、日蓮の真蹟はひととおり公刊された。とはいえ、これらは少数の限定版であるからこれを入手して座右におくことは、これまた難事となっている。
つぎに真蹟の部分的な刊行について見ると、内容からいえば前記四者のうち多少のちがいはあるが、その中からの部分的な別刊がある。それには年次をちがえての再度の刊行と、発行所もちがえているのもある。
三者のなかからの単独刊行
一、神保版立正安国論
原版第一・第二輯、昭和五年十二月刊、発行者金尾種次郎
二、安国会版御真蹟御本尊集
原版御本尊集の縮小版昭和四十九年十月刊発行所立正安国会
三、稲葉版(1)立正安国論原寸巻子仕立
昭和十九年一月刊本書の刊行は第一回発願の後、停頓以前の刊行である後の開版はこの印版による
(2)
一ヶ所に所蔵する真蹟を部分または全部を刊行したものにつぎの五点の書があげられる。一・二は所蔵の一部分、三・四は所蔵の全部である。
北山本門寺所蔵 発行者泉智傳 大正五年十一月発行
二A、日蓮大聖人御真筆写真帖 一帖
編集者 堀日亨 発行元 大石寺大学寮 昭和六年六百五十遠忌記念刊
(内容)大橋書・重須女房御返事・龍門御書・上野殿御返事・上野母尼御返事・莚三枚御書
二B、日蓮大聖人御真筆 二巻
編集 大石寺学頭由井日乘 昭和十四・五年頃刊
(内容)賓軽法重事・衆生身心御書・劫御書(以上巻一)諫暁八幡抄(巻二)
三、授決円多羅義集唐決 一帖
四、富士山西山本門寺御藏宝 一帖
発行所 信人社 昭和四十年二月刊
(内容)浄土九品之事・和漢王代記・五時鶏図・高橋入道御返事・衣食御書・弘安改元事・法華証明断片十
このほかに所蔵する部分または既刊の影写からその一部分を開版したものがあるが、ここにはそれを省略する。以上は、内容からいえば金沢文庫の円多羅義集を除いては真蹟集に収載するものである。これとは別に、前に刊行した原版がコロタイプ版だったのをコロタイプ版から別の製版におこし、または原版のままで発行所をかえて再刊したものに稲葉版がある。この版はのちに北望社から追補重版しており、近くはこれに本尊集の一部と文永・建治・弘安の一部を追加して刊行されることになっている。
真蹟の撮影を新らしくやり直すとなると、真蹟を披見する日時と場所が近来きわめて厳重に制限されていることもあって、たとえば聖教殿の全真蹟をいま関係すじの許可をえて撮影するにしても、ここの場合は年一回の開扉であり、開扉時間の規定もあって現状では二台の機具をセットして一日に十点としても八年かかることになる。したがって既刊の資料によるほかはない。このたびの真蹟集成は、立正安国会と大石寺の好意によって図版資料の提供をうけることになって、現存真蹟の全部をもらすことなく抱括することができたのは、まととに好運といわなければならぬ。
さらに前書の刊行にもれた金沢文庫本を補い、その後に発見された数十余点の真蹟を増補されることになっているから、まさに現時点における文字どおりの全真蹟集が滅後七百年を迎えて、はじめて完成することとなったのである。
四
いま七百年まえに書かれた真蹟に相対するとき、活字文化のなかに生きる現代人にとって草書行書ではしり書きした筆蹟を誰もがすらりと読めるというものではなくなってしまっている。しかし真蹟は活字本で対照することができるから、略字や難字はそれによってよみとることができるという便法がある。真蹟には活字では味えない感があり、感慨ともなって身心につたわるものがある。七百年まえのひとはこのような書を受けとって難なく諦めたのである。讀み馴れれば讀めるようになるもの、そう思えば楽しみともなろう。
真蹟に親炙しようとする感情は、それを身近に置きたいという願望となり、写真技術が開発されない時代には、偽せものを作るという意識とは別にこれを模写し、模本を作ることが行われた時代がある。上手の模筆になると写真で見たのではほんものそっくりに見えるものがある。これらの判別は経験をつんだ眼識によらなければならないほどである。図版にばかりたよっているとこれらに対する鑑別の眼がくらむというおそれがある。
中山法華経寺五十六代に瑞世した真如院日等は中山所蔵の大量の真蹟を上手に模写したひとの一人である。頂妙寺二十世の貫主でもあった日等はこれらの模写本を頂妙寺宝としていまにこれを伝えている。彼は真蹟模写の経験から「日蓮真蹟難讀字典」ともいうべき書と、『祖翰難字集』と自ら題した一書を作っている。この二書は完全無欠の真蹟字書とはいえないまでも、現代人が真蹟を披見するには役に立つまことに重宝な字書である。
前書の内題に「惣御書之内、難讀文字処々在」之」として、メメ=声聞、ヒヒ=縁覚、ササ=菩薩、・・・炎=涅槃、とん=とも、いかん々=いかんか、い=江、などに始まって、特種な略字、連綿体文字を字書式に整理をしたのを首部におき、つぎにそれぞれの御書の中からみにくい難讀字体を引写しして、それに正字体を脇がきする方式をとる。大版墨付四十紙の表裏にわたる。この中、末尾の十四紙は日蓮の自署と花押集となっている。
『祖翰難字集』は漢字の異体字を整理して集録することを主とし、漢字と假名文字の難讀文字をとり出して一書とした大版全三十三紙の書である。内題脇きに「深く之を秘すべし」と記入するが、秘蔵を解いて公開されれば真蹟文字の字書として良き手引き書として恩恵をうけることができると思うので、先師の業績を紹介して、このことを付記しておく。
中山歴代の座について敬虔な思いで万一のときを憂え複製を作ることを目的とされたのであろう、真蹟の字体を模筆して数多くの巻数を摸写した作業をとおして真蹟研究に一家の見をなした先師の例をあげたが、日蓮の場合、ほかにも真蹟に擬したものがかなりたくさんのとされている。しかし擬筆は真筆ではない。このことはよくよく注意して鑑別されなければならぬところである。
引用以上。