akkiy’s 備忘録

主にインスタで載せ切れなかった読書記録とか。

【読書記録】「ジョン・デューイ:民主主義と教育の哲学」(著:上野正道) メモ全文

インスタの方で載せ切れなかった「ジョン・デューイ」(著:上野正道)のメモなど。

 

 

以下、印象的な箇所やメモなど。

 

32 デューイは、学ぶことを知識の「吸収」よりも「構築」「表現」「創造」の観点から理解した。子どもたちの活動的な力、すなわち構築、生産、創造の力を喚起することが、「倫理的な重力の中心を、利己的な吸収から社会的な奉仕(サービス)へと転換する」という。彼は、学ぶこととおこなうことを関連づけ、「知性的なもの」と「道徳的なもの」を結びつけようとした。道徳的思慮を学びのプロセスにつなぎ、それを習慣の形成へとつなぐのは、活動的な学びのなかに含まれる「有機的で倫理的な関係」がその成果に付随してあらわれるときである。そのような学びは、「互恵性、協同、相互奉仕(サービス)」の機会を拡大する。コミュニティとしての学校は、知性的で道徳的な学びをとおして、シティズンシップの形成に寄与するものになる。

 

 

68 通常、民主主義と聞くと、選挙や投票、多数決、あるいは何らかの制度的、行政的なシステムのことを思い浮かべるかもしれない。だが、デューイにとって、民主主義は政治の形態に限定されるものではない。それは、私たち一人ひとりがどのように生きるのか、どのように学び、経験し、成長するのかという、一般の人(コモン・マン)の生命、生き方、生活様式にかかわるものである。そして、人間がさまざまな問題状況のなかで、思考し、探究し、対話しながら課題を解決し、よりよい社会や世界を形成することにつながるものである。

 デューイは、社会から排除されて取り残され、困難を抱えて生きている人たちの存在に目を向け、積極的な支援活動に乗り出した。急速な都市化や産業化によって、社会のなかで居場所を失いがちである貧困家庭、移民、マイノリティの子どもたちに対する援助を拡大することが必要であると確信していた。

 

 

80~85 →一時期、戦争に賛成したデューイは後年後悔した、その反省から戦争に対して批判的なスタンスをとるようになった、このデューイの姿勢の変化は可謬的なプラグマティズムの哲学を体現している

 

 

97 デューイによれば、教育とは、「連続的な成長のプロセス」であり、「成長することは生きること」である。

 デューイは、教育の目的について論じている。「教育のプロセスは、それ自体を越えるいかなる目的ももっていない、すなわちそれはそれ自体が目的であり」、そしてそのような「教育のプロセスは、連続的な再組織、再構成、変容のプロセスである」という。

 

 

102 教育とは、経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける力を増大させるように経験を再構成ないし再組織することである。

 

 

126 だが、デューイは、日本のリベラリズムが反動的な「官僚主義」と「軍国主義」に転向してしまうのではないかと憂慮もしていた。彼によれば、日本人は移ろいやすく、「すぐに最新の知的流行にしたがおう」とし、しかも「最新の思想傾向を容易に、しかし表面的に受容し、より「最新」のものが出てくると、別のものに、たとえそれが反対のものであっても、転向してしまう」という。

丸山真男も似たようなことを言っていたような…

 

 

151 →デューイは人間のコミュニケーション的な相互行為とその結果の観点から、公共性と私事性の関係を解釈、定義した

 

 

153 →リップマンは全能な市民という前提を疑った、市民は何らかのイメージに基づいて物事を見る&見たいものを見る、メディアはこのステレオタイプを強化する、このため一般の市民は事実に基づいて理性的に意見を述べ、思考し、判断することができるという民主的な社会の前提は誤りであるとリップマンは考えた

 

 

154デューイは、「公衆の消滅」という言葉を用いてリップマンの「幻の公衆』の議論を引き継いだが、その解決を専門家のエリートによる統治と支配に求めるのではなく、「明晰な公衆」を再生する方法を探ろうとした。彼は、「公衆の消滅」から「明晰な公衆」への転換を、「グレート・ソサエティ」から「グレート・コミュニティ」への転換という言い方で表現している。「グレート・ソサエティがグレート・コミュニティに転換されるまでは、公衆は消滅したままであろう。コミュニケーションだけがグレート・コミュニティを創り出すことができる」という。それは、市場と産業主義の拡大がもたらす匿名の社会空間を、公衆が「顔の見える関係」で対話し活動するコミュニティの空間に再編成することを意味していた。

→リップマンの諦めとデューイの考え、グレートコミュニティへの転換

 

 

196 →デューイはリベラリズム脆弱性レッセフェール的側面)を人々の相互関係やコミュニケーションを基礎にした社会的行為や社会的知性の組織化によって解消しようとした

 

 

201 デューイは、民主主義とは自由なコミュニケーションから生まれる「知性」の「自発的選択」であり、異なる他者と「ともに生きる方法」であると言い表している。また、同じ年の「民主主義と教育行政」(LW11)という論考では、「生き方としての民主主義」の観念を打ち出している。それは、すべての人が「ともに生きる」という価値の形成に参加して、「相互討議と自発的合意の方法」を探るものである。さらに、一九三八年の「今日の世界における民主主義と教育」(LW13)の論考でも、民主主義と教育は「相互的な関係」であると解釈したうえで、民主主義は「教育の原理であり、教育の方針であり、政策である」と強調している。

このような理念の基底にあるのは、人間性やコモン・マンに対する信仰である。デューイは、一九三九年の「創造的民主主義- ―私たちの前途にある課題」(LW14)で、民主主義の基礎は「人間性への信仰」にあると論じている。それは、「コモン・マンへの信仰」であり、「人間性のもつ可能性への信仰」である。人間の「生き方」や「ともに生きる方法」にかかわる民主主義の根幹には、多様な人びとが探究し、創造し、相互に討議し、共生する人間の可能性に根差した「コモン・マンへの信仰」があった。

→デューイの思想の根底には人間性のもつ可能性への信仰がある