【読書記録】「トリスタンとイゾルデ」(著:ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク) メモ全文
インスタの方で載せ切れなかった「トリスタンとイゾルデ」(著:ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク)のメモなど。
以下、印象に残った箇所やメモなど。
第1章「序章」
3 暇のある人が恋の苦しみを背負い込むと、恋の苦しみは暇の多さに比例してつのるというのが、すべての人の一致した意見である。恋の悩みに暇が伴えば、恋の悩みはますます大きくなるものである。それゆえ心の痛みと恋の苦しみを胸に抱く者は、できるだけその身のために暇つぶしの仕事を探すことを心がけるのがよい。そうすれば、憂え心はとりまぎれ、それは憂え心にとって甚だ結構なことである
第16章「媚薬」
198 相愛の二人にはその度に、相手が前よりもずっと美しくなったように思われた。これが愛のおきてであり、恋のしきたりであって、すべての恋人たちの間では過去においてもそうであったし、現在においてもまた未来においても恋が存する限りそうなのであるが、愛が二人に芽生え、花を咲かせ、甘美な実を結ぶとき、相思の二人は互いに最初よりも魅力を感ずるようになるのである。実を結ぶ恋は、それが生長するにつれて、恋人をますます美しくする。これが恋のまく種子であり、この種子のお陰で恋は滅びることがないのである。
恋は前よりも後になるほど美しく思われるが、そのためにこそ恋のおきては永続するのであって、恋が前も後も同じように思われるものなら、恋のおきては速やかに滅びるであろう。
【備忘録】読書の方法について:大量の本にどう向き合うか
読書の方法についての備忘録まとめ。
1.『すぐにわかる学術書の読み方 ~大量の本にどう向き合うか〜』国立大学共同利用・共同研究拠点協議会のyoutubeより
京都大学人文科学研究所の岡澤康浩助教による紹介。以下の方法は岡澤助教のやり方。
大量の本を処理する方法として6点紹介されていた。
1:リーディングリストを使う(授業や研究室、教授などが公開している)
2:書評を読む(学術書などは書評が充実しており、それを読むだけでも事足りることもあるらしい)
3:序章と結論だけ読む
4:特定の章だけ読む(メリハリのある読書が可能に、本の全編を通じて細心の注意を払いながら読み進める場面は研究においてもあまりないとのこと)
5:索引を使う
6:注を使う(他の文献を辿ることが可能)
その他、直接本に書き込む方法は古典的だが今でも人気があるやり方らしい、時間や集中力には限りがあるので飛ばし読みは多くの文献から必要な情報を集める上でとても大事な方法である
あと余談だが、「国立大学共同利用・共同研究拠点協議会」という名称、真面目過ぎるネーミングなの好き
【読書記録】「読んでいない本について堂々と語る方法」(著:ピエール・バイヤール) メモ全文
インスタの方で載せ切れなかった「読んでいない本について堂々と語る方法」(著:ピエール・バイヤール)のメモなど。
以下、印象的な箇所やメモなど。
33 教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。
35 ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを〈共有図書館〉と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この〈共有図書館〉を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは〈共有図書館〉を構成している諸要素間の関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない。そしてこの意味で、大部分の書物を読んでいないということはなんら障害にはならないのである。
一冊の本は、われわれの視界に入ってきた瞬間から未知の本ではなくなる。その本に関して何も知らなくても、それについて夢想することも、議論することもできる。教養ある、好奇心旺盛な人間なら、本を開く前から、タイトルやカバーにちょっと目をやるだけで、さまざまなイメージや印象が沸き起こるはずである。そしてそれらのイメージや印象は、一般的教養がもたらす書物全般についての知識に助けられて、その本についての最初の見解に変わることだろう。このように、本との出会いというものは、どんなに取るに足らないものであれ、またたとえ本を開くにいたらないにせよ、本を真の意味でわがものとする第一歩となりうるのである。極論すれば、一度でも出会ったあとに未知でありつづけるような本はひとつもないといっていい。
→共有図書館という全体観を踏まえる重要性
43〜→著作を読んでいない作家などに捧げたヴァレリーの文章が面白い、自分が読んでいないことを棚に上げて、かつ巧みに言辞を弄してその作家を論じている
86→われわれが話題にする書物は全て〈遮蔽物(スクリーン)としての書物〉である、書物についての言説の大部分は実は他の書物について発せられた他の言説であり、それもまた別の言説に関するものであり、この連鎖に際限が無い
96→読者をする読者は全員、読んだ本のいくつかの断片しか記憶していない、どこかを必ず忘れてしまうもの
102 読書は、何かを得ることであるよりむしろ失うことである。それは、この喪失が流し読みのあとに来ようと、人から本の話を聞いたあとであろうと、漸次的な忘却の結果であろうと同じである。このように考えることは、われわれが読んでいない本について語るという苦しい状況に追い込まれたときに、そこから脱するための戦略を練るさいの大きな心理的原動力となる。
135→〈内なる書物〉とは、我々の内部にある、何らかの未知の本に出会った時にその読解の仕方を無意識的に方向づける表象の総体、知らず知らずの内に抱いている全体観のこと。何らかの未知の作品を土台に論じる時もこの作品は内なる書物に規定される考察の枠のなかで溶解する、またこれによって無知な作品の持ちうる無数の豊かな解釈のひとつに接近できる
160 したがって、読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部には立ち入らないこと、これである。作家は自分の本についての要約や詳しいコメントなどまったく期待していない。それはむしろしないほうがいい。作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことなのである。
→作家とその読者の間でそれぞれ持っている内なる書物は異なるので、作家の著作について両者が語り合うとかえって両者の見解が食い違うことがよくある
171 われわれは、この時間と言語の人工的な停止をつうじてはじめて、相手の内奥に隠されたテクストを不動の状態で把握できる。このテクストは、ふつうの世界では、たえず変容を続けていて、その動きを止めることも、自分のテクストを相手のそれに一致させることもできないのである。まだ〈内なる書物〉の方はわれわれの幻想に似て比較的固定している。しかし、われわれが話題にするのは〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉である。こちらの方は、のちに見るように、不断に変化しているので、いくらその変化を止めようと考えても無駄なのである。
したがって、二人の人間のテクストを一致させるという夢は、ファンタジーのなかでしか実現されない。現実生活のなかでは、われわれが書物について他人と交わす会話は、残念ながら、われわれの幻想によって改変された書物の断片についての会話である。つまり、作家が書いた本とはまったく別のものについての会話にほかならない。作家自身でさえ、読者が彼の本について語ることのなかに自分を認知できるということはまれなのである。→二人の人間の書物に関するそれぞれの認識は一致することはない
177 本について語ること、ないし書くことと、本を読むこととの違いは、前者には、顕在的であれ潜在的であれ、第三者が介在するということである。この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである。これは第二部でもいくつかの具体的な状況をめぐって指摘したことだが、本について語るときに問題になるのは間主観的な関係である。すなわち、〈他者〉との関係――それがどのようなものであろうと――が書物との関係にたいして優位に立つような心理上の力関係である。そこでは書物との関係じたいが結果的にそれによって影響を被らざるをえない。
181 書物というものはたいていの場合、もっと単純に、われわれが知っている現実の書き手の延長上にあるのである(その人間をよく知る必要があることはいうまでもない)。したがって、デンプシーのように、本の著者と付き合うだけでその本がどのようなものかを知ることはまったく可能なのである。
182 ある書物がどのようなものであるかを知り、それについて語るのに、その書物を読んでいる必要はいささかもない。読んでいなくても、一般論的なコメントだけでなく、踏み込んだコメントすら可能である。というのも、書物は孤立しては存在しないからだ。一冊の書物は、私が〈共有図書館〉と呼んだ大きな全体のなかの一要素にすぎないので、評価するのにそれをくまなく読んでいる必要はない(デンプシーには彼が語っている本がどんなジャンルに属しているか分かっている)。大事なのは、それが〈共有図書館〉のなかで占める位置を知ることである。その位置は、ひとつの単語がある言語において占める位置に似ている。一個の単語は、同じ言語に属する他の単語との関係において、また同じ文中にある他の単語との関係において位置づけられてはじめて意味をもつ。
問題なのはけっしてしかじかの書物ではなく、ひとつの文化に共通する諸々の書物の全体であって、そこでは個々の書物は欠けていてもかまわない。つまり、〈共有図書館〉のしかじかの要素を読んでいないと正直に認めていけない理由はどこにもないのである。その要素を読んでいなくても、〈共有図書館〉全体を眼下におき、〈共有図書館〉の読者のひとりでありつづけることはできるからだ。この全体が個々の書物をとおして顕現するのであって、個々の本はいわばその仮の住まいにすぎない。したがって、デンプシーの同僚の本についての評価は、主観的評価として、まったく容認できる性質のものである。彼がたとえこの本を読んだとしても、彼の評価はさほど変わらないはずである。
→共有図書館という全体観を踏まえていれば個々の書物を読まずとも評価できる
183 しかじかの本を読んでいないとはっきり認めつつ、それでもその本について意見を述べるというこの態度は、広く推奨されてしかるべきである。この態度は、先の例からも分かるように、積極的な意味をもっている。にもかかわらずこれがほとんど実践されないのは、本を読んでいないことを認めることが、われわれの文化においては、重い罪悪感をともなうからである。
→確かにと思った
187 教養は――そしてわれわれが与えようとする教養のイメージは――、他人および自分自身からわれわれを隠す保護膜である。教養の欠落部分に直面するという日常的な状況から脱するための適切な方策を見出そうとするなら、この恥ずかしさの感情の存在を知り、その基盤となるものを分析しなければならない。それは書物の断片でできた教養という不連続な空間で生き延びる道である。この空間においては、われわれの深層のアイデンティティーが、あたかも恐怖心にとらわれた子供のそれのように、不断に危険にさらされるのである。
193-195 したがって、リングボームがある過ちさえ犯していなかったら、何の問題も起こらなかったはずである。ところが彼は、このゲームが秘めている暴力性や、先述した心理的葛藤のせいで、『ハムレット』に関する自分の知識についてあいまいさを残さないという過ちを犯すのだ。そうすることで、彼は、われわれが自分と他人とのあいだに普通に成立させている決定不能な文化空間から自らを排除するのである。この空間において、われわれは、自分自身にも他人にも一定範囲の無知を許す。というのも、あらゆる文化は数々の空白や欠落の周りに構築されるということをよく知っているからである(ロッジは先の引用で「教養のギャップ」について語っている)。しかも、この空白や欠落は、別のたしかな情報を所有する妨げとはならない。書物に関する――いや、より一般的に、教養に関する――このコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。これはまた、幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間、その主要なルールが守られなければ続けられないようなゲームの空間である。この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されなくなると、また出された問いにはっきりと答えなければならなくなると、この空間の内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。
→ヴァーチャル図書館とそのルールについて
195 彼が暴いたのは、じつは教養の真実とでもいうべきものである。つまり、教養とは個人の無知や知の断片化が隠蔽される舞台だということだ。
200 このように、読んでいない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放するべきである。これは家族や学校制度が押し付けてくるイメージであり、われわれは生涯をつうじてこれにどうにか自分を合致させようとするが、それは無駄というものだ。われわれには他人に向けた真実より、自分自身にとっての真実のほうが大事である。後者は、教養人に見られたいという欲求——われわれの内面を圧迫し、われわれが自分らしくあることを妨げる欲求——から解放された者だけが接近できるのである。
202 本というものはなるほどその周りで語られることに影響を受けないではいない。ほんの短い会話によってすら変えられるのである。このテクストの可変性は、〈ヴァーチャル図書館〉のあいまいな空間の不確定性を示す二つ目の特徴である。一つ目は、本について語る者がじっさいにその本についてもっている知識の不確定性を示すものだったが、この二つ目は、未読書について語るための戦術を考えるさいの決定的要素となる。固定した書物イメージではなく、流動的な状況のイメージをもとに考えるだけに、きわめて有効な戦術を練ることができるのである。この状況では、議論の担い手たちは、とくに自分の観点を押しつけることができる場合は、書物のテクストそのものを変化させることができるのだ。
→なるほどと思った
224 書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる——リュシアンよりも決然と——ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。バルザックのヒーローたちは、〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性を見事に示している。〈ヴァーチャル図書館〉は、本を読んでいるいないにかかわらず、読者を自称する人間たちの意見に惑わされることなく自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせて、いとも容易に変化するのである。
239 このように、われわれが話題にする書物というのは、客観的物質性を帯びた現実の書物であるだけでなく、それぞれの書物の潜在的で未完成な諸様態とわれわれの無意識が交差するところに立ち現われる〈幻影としての書物〉である。この〈幻影としての書物〉は理論的には現実的物象としての書物から生まれるはずのものだが、われわれの夢想や会話というのは現実の書物よりもこの〈幻影としての書物〉の延長上に花開くのである。
訳者あとがき
279→書物至上主義は権威主義と結びつく
295→筆者は本書で示した自らの主張を本書の中で身をもって実践している
【読書記録】「ジョン・デューイ:民主主義と教育の哲学」(著:上野正道) メモ全文
インスタの方で載せ切れなかった「ジョン・デューイ」(著:上野正道)のメモなど。
以下、印象的な箇所やメモなど。
32 デューイは、学ぶことを知識の「吸収」よりも「構築」「表現」「創造」の観点から理解した。子どもたちの活動的な力、すなわち構築、生産、創造の力を喚起することが、「倫理的な重力の中心を、利己的な吸収から社会的な奉仕(サービス)へと転換する」という。彼は、学ぶこととおこなうことを関連づけ、「知性的なもの」と「道徳的なもの」を結びつけようとした。道徳的思慮を学びのプロセスにつなぎ、それを習慣の形成へとつなぐのは、活動的な学びのなかに含まれる「有機的で倫理的な関係」がその成果に付随してあらわれるときである。そのような学びは、「互恵性、協同、相互奉仕(サービス)」の機会を拡大する。コミュニティとしての学校は、知性的で道徳的な学びをとおして、シティズンシップの形成に寄与するものになる。
68 通常、民主主義と聞くと、選挙や投票、多数決、あるいは何らかの制度的、行政的なシステムのことを思い浮かべるかもしれない。だが、デューイにとって、民主主義は政治の形態に限定されるものではない。それは、私たち一人ひとりがどのように生きるのか、どのように学び、経験し、成長するのかという、一般の人(コモン・マン)の生命、生き方、生活様式にかかわるものである。そして、人間がさまざまな問題状況のなかで、思考し、探究し、対話しながら課題を解決し、よりよい社会や世界を形成することにつながるものである。
デューイは、社会から排除されて取り残され、困難を抱えて生きている人たちの存在に目を向け、積極的な支援活動に乗り出した。急速な都市化や産業化によって、社会のなかで居場所を失いがちである貧困家庭、移民、マイノリティの子どもたちに対する援助を拡大することが必要であると確信していた。
80~85 →一時期、戦争に賛成したデューイは後年後悔した、その反省から戦争に対して批判的なスタンスをとるようになった、このデューイの姿勢の変化は可謬的なプラグマティズムの哲学を体現している
97 デューイによれば、教育とは、「連続的な成長のプロセス」であり、「成長することは生きること」である。
デューイは、教育の目的について論じている。「教育のプロセスは、それ自体を越えるいかなる目的ももっていない、すなわちそれはそれ自体が目的であり」、そしてそのような「教育のプロセスは、連続的な再組織、再構成、変容のプロセスである」という。
102 教育とは、経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける力を増大させるように経験を再構成ないし再組織することである。
126 だが、デューイは、日本のリベラリズムが反動的な「官僚主義」と「軍国主義」に転向してしまうのではないかと憂慮もしていた。彼によれば、日本人は移ろいやすく、「すぐに最新の知的流行にしたがおう」とし、しかも「最新の思想傾向を容易に、しかし表面的に受容し、より「最新」のものが出てくると、別のものに、たとえそれが反対のものであっても、転向してしまう」という。
→丸山真男も似たようなことを言っていたような…
151 →デューイは人間のコミュニケーション的な相互行為とその結果の観点から、公共性と私事性の関係を解釈、定義した
153 →リップマンは全能な市民という前提を疑った、市民は何らかのイメージに基づいて物事を見る&見たいものを見る、メディアはこのステレオタイプを強化する、このため一般の市民は事実に基づいて理性的に意見を述べ、思考し、判断することができるという民主的な社会の前提は誤りであるとリップマンは考えた
154デューイは、「公衆の消滅」という言葉を用いてリップマンの「幻の公衆』の議論を引き継いだが、その解決を専門家のエリートによる統治と支配に求めるのではなく、「明晰な公衆」を再生する方法を探ろうとした。彼は、「公衆の消滅」から「明晰な公衆」への転換を、「グレート・ソサエティ」から「グレート・コミュニティ」への転換という言い方で表現している。「グレート・ソサエティがグレート・コミュニティに転換されるまでは、公衆は消滅したままであろう。コミュニケーションだけがグレート・コミュニティを創り出すことができる」という。それは、市場と産業主義の拡大がもたらす匿名の社会空間を、公衆が「顔の見える関係」で対話し活動するコミュニティの空間に再編成することを意味していた。
→リップマンの諦めとデューイの考え、グレートコミュニティへの転換
196 →デューイはリベラリズムの脆弱性(レッセフェール的側面)を人々の相互関係やコミュニケーションを基礎にした社会的行為や社会的知性の組織化によって解消しようとした
201 デューイは、民主主義とは自由なコミュニケーションから生まれる「知性」の「自発的選択」であり、異なる他者と「ともに生きる方法」であると言い表している。また、同じ年の「民主主義と教育行政」(LW11)という論考では、「生き方としての民主主義」の観念を打ち出している。それは、すべての人が「ともに生きる」という価値の形成に参加して、「相互討議と自発的合意の方法」を探るものである。さらに、一九三八年の「今日の世界における民主主義と教育」(LW13)の論考でも、民主主義と教育は「相互的な関係」であると解釈したうえで、民主主義は「教育の原理であり、教育の方針であり、政策である」と強調している。
このような理念の基底にあるのは、人間性やコモン・マンに対する信仰である。デューイは、一九三九年の「創造的民主主義- ―私たちの前途にある課題」(LW14)で、民主主義の基礎は「人間性への信仰」にあると論じている。それは、「コモン・マンへの信仰」であり、「人間性のもつ可能性への信仰」である。人間の「生き方」や「ともに生きる方法」にかかわる民主主義の根幹には、多様な人びとが探究し、創造し、相互に討議し、共生する人間の可能性に根差した「コモン・マンへの信仰」があった。
→デューイの思想の根底には人間性のもつ可能性への信仰がある
【備忘録】川田洋一氏のセミナーでの講演と称する文書について
【セミナー『宿業の意味を考える』(要約)
――なぜ御本尊に題目を唱えるのか――
東洋哲学研究所所長 医学博士 川田洋一
宿業はどこに形成されるか。
業というものは潜在意識という無意識の世界に形成される。この無意識の部分がどうなっているかによってその人の、幸、不幸が決まります。その潜在意識を徹底的に研究しているのが心理学であり、宗教であります。
(以下略)】
(「にゃんたのブログ」さまより、リンク:https://ameblo.jp/kabamaru0320/entry-12525657116.html)
などという文書について。
東洋哲学研究所の元所長の川田洋一氏のセミナーでの講演と称する文書を見かけた。読み物としては面白いのだが、この文書の出所が全くつかめない。
地元の会合で紹介されていたのだが、出所がでたらめであるならば、この文書の価値も無価値であると判断せざるを得ない。
ネットで色々と情報を探っていると、内部と思しき方が書いた以下の記述に出会った。
「どん兵衛のひとり言 きまぐれ日記もどき」さまより(リンク:http://donbei.s13.xrea.com/sunbbs2/index2.html)
引用開始
■ 怪文書について
Date: 2003-06-28 (Sat)
昨今問題となっている怪文書「信仰をする理由について」は、内容面から見てもおかしな点が多い。また同一文書にもかかわらず、多くの著名な方の名前で出回っていることも、なにやら作為的なものさえ感じるほど不思議なことだ。
この怪文書をもとに、あちらこちらで研究発表などがされていたようだが、あの怪文書の内容には、なんの根拠もないばかりか、教義的にもそぐわない内容になっているので、ここで再度確認しておきたい。
【怪文書の要旨】
・ノーベル賞の利根川教授の言葉からはじまり、宇宙の振動が7.5ヘルツである。すべてのものにとって、最高の振動が7.5ヘルツである。
・全米心理学会が創価学会を唯一の宗教団体と認めている。
・同学会が、創価学会と創価大学と共同で、ご本尊の研究をしている。
・南無妙法蓮華経はサンスクリットで、「ありがとう」という意味。
・ユングもご本尊を拝んで、精神病を治したーー云々。
【問題点と正しい解釈】・・・幹部の方より
南無妙法蓮華経は、大聖人もおっしゃっているし、歴史的事実でもありますが、南無は確かに、サンスクリットですが、妙法蓮華経は、漢語。南無は、サンスクリットではnamasで、後ろが有声音の時は、リエゾンして、namoになり、音写して、南無です。namas は、帰依する、尊敬するで、御義口伝によると、(簡単に説明しますが)、妙法は九界(苦しみ、迷いの境界)即仏界、仏界即九界、 蓮華も因果具時で、悩みの九界で修行して、悩みがなくなって仏界に至るのではなく、悩みながらも、進んでいく中にこそ、仏界が輝く。経も、我々普通の人間の妙法を自他に語る声こそが、仏の行いをなす。
つまり、悩みや苦しみはなくならない。広布に生きる偉大な人生の悩み、苦しみを味わっていこう、という考えなのです。どっちかの脳の波動を7.5ヘルツにして、祈れば、この世はハッピーなんてこととは、違います。第一、この文章には、他者のことがでてこない。同苦の心がでてこない。
【幹部の方の談話】
「草創から学会は自分の姿で、信仰の正しさを証明していくのが本来なのだが、今、特別なスターが入信していたり、特別な科学実験で外から証明されたりして安心する。自分ではなく、外に価値の正しさを依存するようになってるのかなあ。先生も教学が大事な時がやって来たとおっしゃったが、ほんとにそうだ。申し訳ないなあ」
【名前を利用された方々】
中野毅創価大学教授、川田洋一東洋哲学研究所所長、河合一副総合教学部長、友岡雅弥東洋哲学研究所研究員(聖教新聞大阪支局記者)、アメリカSGIのスタンレー大西フィラデルフィア生物医学研究所所長
引用終了
これによると先の文書は公式には怪文書とされているようである。ネットやツイッターにあった他の情報(退転者による情報も含む*1ため、信憑性はいったん置いておいて)によると、当時の総県長会議において注意喚起、破棄指示がなされたっぽい。
なぜこのような文書が流布したのか、そのいきさつが気になるところだが、2000年代はじめということもあって情報が全くない。
ご存知の方がいたらぜひ教えていただきたいところ。
それと資料を発表する際は、しっかりとその出典を明らかにすることは(学問的にも)当然である。場合によっては組織破壊にもつながりかねない。
ネットでは他にも(youtubeなどでも)、ある最高幹部の指導などとする情報があり、それらはとても面白くはあるのだが、出所が不明であることは肝に銘じなければならないし、そういった出典不明の情報を会合等で紹介するのは御法度であろう。
参考記事など
*1 https://twitter.com/MobiusRebellius/status/994749520255729664
なおこの人物(友岡氏)については以下の記事が参考になった。
「創価学会員として生きていく」さまより
「社団法人の母体は波田地グループ肝いりの会員制有料ブログ」:https://lifewithsoka.hatenablog.com/entry/kakuremino
【備忘録】「日蓮聖人真蹟印刊行の概観」 兜木正亨
「日蓮聖人真蹟集成 第1巻」の解説に載ってあった。備忘録として。
日蓮大聖人の御真筆をまとめた書籍は本書「日蓮聖人真蹟集成」(昭和51-52年)に加えて、
- 大正時代の神保版「日蓮聖人御真蹟」
- 昭和27~34年の片岡版「日蓮大聖人御真蹟」
- 昭和42年の大石寺版(大石寺蔵の全真蹟)「大石寺蔵日蓮大聖人御真筆聚」
- 昭和24~43年の稲葉版「現存日蓮聖人御真蹟」
があるらしい。
以下、「日蓮聖人真蹟印刊行の概観」の全文。テキスト認識で書き起こしたため誤字があるかも。
日蓮聖人真蹟影印刊行の概観
兜木正亨
一
ここにいう真蹟とは、遺文・曼陀羅本尊・要文抄録・書写本、五時教判や年表のような表示を内容とした図録とよばれているもの、さらに上記の断簡をふくめて日蓮が自書したものすべてをいう。
真蹟を影印で見られることは、実物がいつでも見せてもらえるものでないだけに随時随所に披見できるという利点が与えられ、また真蹟研究の門戸が開かれることでもある。写本遺文時代に生存した先師たちが、真蹟との対校に熱情を傾けた時代を想うと、まことによき時代に遭遇したことを感謝しなければならない思いがする。
真蹟の影印刊行事業は大正の初期にはじまる。はじめは主要遺文を内容として刊行されたが、それが口火となって、遺文その他の全真蹟を刊行しようとする方針で計画されるようになって、いくたの苦難にあい、挫折したこともあったが、それをのりこえてこの志願をほぼ達成されたのは昭和二十年代のことであった。大正時代の事業は日蓮宗の神保弁静師を中心に行われ、昭和の大成は神保師の遺業をついで昭和の初めにこれに着手した在俗信者片岡随喜氏の願業であった。しかし片岡氏の偉業も富士大石寺所蔵分は最終的に収録を許可されずにおわったが、それから約二十年ののちに、門戸を固く閉じていた(後記のような一部の刊行はあったが)大石寺もまた寺蔵の全真蹟を刊行するにいたった。これより先き名古屋に居住した俗の稲葉与八氏は昭和二十三年に現存真蹟の刊行を発願してこの事業を進め、現存の大半を刊行されたが、あと約半数をのこして完成を見ずにおわっている。真蹟の総合的な開版事業は規模と内容は同じではないが、この四者に代表され、その二者を合せれば全影を見られるまでになった。ほかに一山一寺に所蔵する真蹟の刊行が大正・昭和にかけてなされ、また前記の総合刊行の中から部分的に別行開版されているものもある。つぎにこれらの刊行経過と内容について概説する。
二
真蹟を大量にとりまとめた規模の大きいコロタイプ版図版刊行は、大正二年から翌三年にかけて発行された『日蓮聖人御真蹟』全二十軽にはじまる。これ以前には部分的な刊行もなかった。二六五×三八〇センチ横綴じの本書は第一・二輯に立正安国論、最後の第十九二十輯には観心本尊抄を収録し、その間の十六冊に現存真蹟遺文宝庫である中山法華経寺所蔵の主要書と池上本門寺玉沢法華寺所蔵の撰時抄・兄弟抄、それに報恩抄の断簡などを併せて全四十七書を内容とする。本書の編集人はそのころ日蓮宗宗務総監の任にあった神保弁静師である。発行所は東京芝二本榎一丁目にあった日蓮宗宗務院におかれていた。大正五年に総監職を辞任した神保師は、前書に載せることのできなか京都の寺その他に所蔵する真蹟を前書の続編として刊行することを計画し、ほとんどその写真を撮りおわって編集にとりかかっていた矢先に、大正十二年の関東大地震にあい、火災のために作製した写真原版はすべて烏有にしてしまって惜しくもこのことは挫折した。再度の撮影やり直しができなかったことは、そのころ散在する真蹟撮影の事業がいま考えるほど容易でなかったことがその理由のひとつになっていたようである。
その後に後記するような一山一寺所蔵の真蹟がいくつか刊行されているが、総括的な規模で真蹟刊行を計画したのが立正安国会片岡随喜氏発願の真蹟開版事業である。片岡氏は神保師の遺志をついで昭和三年からこの事業に着手し、聖教殿に格護する聖教殿は山田三良博士が建築実行委員長となって、大正十五年十一月起工、昭和六年四月完成した真蹟安全保存を目的とする耐震火災建造物中山法華経寺蔵の真蹟総計八〇点をはじめ、私集最要文といわれる法華経八巻と開結二経の行間と紙背に経論の要文を書き入れた注法華経と通称される日蓮の持経、そのほか全国に散在する日蓮真筆のすべてを図版刊行する大事業にとりかかられた。そして七年の年月を要して撮影を完了されたが、大石寺所蔵のものは最終的には許可をえることができなかったと聞いている。山中喜八氏はこの真蹟集の撮影編集責任者としてその任にあたられた。
安国会の片岡氏の真蹟出版事業は善本の全真蹟集を作ってこれを普及し、教学の基礎資料を提供することを目的としたもので営利を無視した刊行事業であった。ところが第二次世界大戦前後の事情はこれを順調に進捗させる状態ではなかった。そのような悪条件のなかで、真蹟への情熱によって、いくたの苦難を克服して刊行されたのが安国会の『日蓮大聖人御真蹟』である。ここに収録された真蹟は巻子本四十八巻と大和綴冊子装本二十二冊、ほかに御本尊集が三百二十三枚に仕立られている。緞子布表紙をつけた巻子本や同表装の冊子本で原寸大から縮小版をとりまじえて寸法は一定ではない。この一部を作製するのに今では技術的にも経済的にも困難事となっているのが実情である。本書の内容は巻子仕立は(一)法華経十巻と、(ニ)口三十八巻には立正安国論ほか五十八書、図録六点、御遷化記録等を収録する。冊子装には原寸大の(一)観心本尊抄を別冊本一冊とし、(ニ)つぎの十冊に現存遺文真蹟、安国論の重出別筆断簡をふくめて百十五点を収載する。このなかには真蹟の全篇現存するのが三十六点、、そのほかは一部缺失または数紙・数行を現存する書となっている。(三)これにつぐ二冊は、これまでの刊行遺文に収録されていない断簡類とするもので、各冊四十三点と五十四点の計九十七点を収めている。(四)以下の六冊には二十一点の写本と抄録類を収録し、末尾に「御遺物配分事」と「身延輪番帳」を併載する。(五)つぎの二冊は要文断簡類で、四十点と三十五点を分載する。最後の一冊は、直弟子日曜日朗・日興、富木日常から江戸期の不受不施日樹まで三十三人が書いた曼陀羅本尊を収録する。この全書の発行所は千葉市長洲町一丁目宗教法立正安国会で、昭和二十七年から同三十二年にわたって刊行された。この全書の刊行は日蓮の真蹟研究への画期的な偉業であり、大きな光明となった。
安国会の刊行と前後して、名古屋市千種区田代町稲葉興八氏が発願発行人となり、山川智応氏が編集者となって、また別に昭和十六年に「現存日蓮聖人御真蹟護持会」を作り、稲葉氏が発願者であると同時に経営主任になって、これまた私財を投入して『日蓮聖人御真跡』の出版を企画した。しかし翌十七年一旦停頓、昭和二十三年再出発して、翌二十四年に弘安部第一を発行、翌二十五年に二帙、それより三十一年まで毎年一帙を刊行した。この間に出版されたのは、観心本尊抄、立正安国論、撰時抄と弘安部一二、文永部一建治部一の全八帙であった。その後八年の時をおいて三十九年に貞観政要、四十一年から四十三年まで文永部二三、建治部二の四帙を加えて全十三帙とした。しかしこの事業も稲葉氏の死によって中絶し、発行を北望社に移したが現存真蹟のすべてを収録することができず、予定のなかばにして断絶したことは惜しまれる。本書の既刊真蹟点数は一〇八点となっている。
片岡氏が発願して刊行した前記の安国会本に収録されなかった大石寺に所蔵する真蹟は、点数からいえば遺文・要文・断簡録を合せて四十八点で、数量から見て多いというのではなく、その中の一部分は影印刊行されてはいたが、しかしその全体はなお隔絶状態におかれていた。真蹟が文化財に指定されることになったのを機会に、寺蔵の全真蹟が『大石寺蔵日蓮大聖人御真筆聚』原寸版四帖百五十部限定として昭和四十二年に大石寺から刊行された。
日蓮の真蹟は、真筆集の刊行後にもいくつか発見されている。また今後も発見される可能性がある。ともあれ大石寺蔵の真蹟が刊行されたことによって、日蓮の真蹟はひととおり公刊された。とはいえ、これらは少数の限定版であるからこれを入手して座右におくことは、これまた難事となっている。
つぎに真蹟の部分的な刊行について見ると、内容からいえば前記四者のうち多少のちがいはあるが、その中からの部分的な別刊がある。それには年次をちがえての再度の刊行と、発行所もちがえているのもある。
三者のなかからの単独刊行
一、神保版立正安国論
原版第一・第二輯、昭和五年十二月刊、発行者金尾種次郎
二、安国会版御真蹟御本尊集
原版御本尊集の縮小版昭和四十九年十月刊発行所立正安国会
三、稲葉版(1)立正安国論原寸巻子仕立
昭和十九年一月刊本書の刊行は第一回発願の後、停頓以前の刊行である後の開版はこの印版による
(2)
一ヶ所に所蔵する真蹟を部分または全部を刊行したものにつぎの五点の書があげられる。一・二は所蔵の一部分、三・四は所蔵の全部である。
北山本門寺所蔵 発行者泉智傳 大正五年十一月発行
二A、日蓮大聖人御真筆写真帖 一帖
編集者 堀日亨 発行元 大石寺大学寮 昭和六年六百五十遠忌記念刊
(内容)大橋書・重須女房御返事・龍門御書・上野殿御返事・上野母尼御返事・莚三枚御書
二B、日蓮大聖人御真筆 二巻
編集 大石寺学頭由井日乘 昭和十四・五年頃刊
(内容)賓軽法重事・衆生身心御書・劫御書(以上巻一)諫暁八幡抄(巻二)
三、授決円多羅義集唐決 一帖
四、富士山西山本門寺御藏宝 一帖
発行所 信人社 昭和四十年二月刊
(内容)浄土九品之事・和漢王代記・五時鶏図・高橋入道御返事・衣食御書・弘安改元事・法華証明断片十
このほかに所蔵する部分または既刊の影写からその一部分を開版したものがあるが、ここにはそれを省略する。以上は、内容からいえば金沢文庫の円多羅義集を除いては真蹟集に収載するものである。これとは別に、前に刊行した原版がコロタイプ版だったのをコロタイプ版から別の製版におこし、または原版のままで発行所をかえて再刊したものに稲葉版がある。この版はのちに北望社から追補重版しており、近くはこれに本尊集の一部と文永・建治・弘安の一部を追加して刊行されることになっている。
真蹟の撮影を新らしくやり直すとなると、真蹟を披見する日時と場所が近来きわめて厳重に制限されていることもあって、たとえば聖教殿の全真蹟をいま関係すじの許可をえて撮影するにしても、ここの場合は年一回の開扉であり、開扉時間の規定もあって現状では二台の機具をセットして一日に十点としても八年かかることになる。したがって既刊の資料によるほかはない。このたびの真蹟集成は、立正安国会と大石寺の好意によって図版資料の提供をうけることになって、現存真蹟の全部をもらすことなく抱括することができたのは、まととに好運といわなければならぬ。
さらに前書の刊行にもれた金沢文庫本を補い、その後に発見された数十余点の真蹟を増補されることになっているから、まさに現時点における文字どおりの全真蹟集が滅後七百年を迎えて、はじめて完成することとなったのである。
四
いま七百年まえに書かれた真蹟に相対するとき、活字文化のなかに生きる現代人にとって草書行書ではしり書きした筆蹟を誰もがすらりと読めるというものではなくなってしまっている。しかし真蹟は活字本で対照することができるから、略字や難字はそれによってよみとることができるという便法がある。真蹟には活字では味えない感があり、感慨ともなって身心につたわるものがある。七百年まえのひとはこのような書を受けとって難なく諦めたのである。讀み馴れれば讀めるようになるもの、そう思えば楽しみともなろう。
真蹟に親炙しようとする感情は、それを身近に置きたいという願望となり、写真技術が開発されない時代には、偽せものを作るという意識とは別にこれを模写し、模本を作ることが行われた時代がある。上手の模筆になると写真で見たのではほんものそっくりに見えるものがある。これらの判別は経験をつんだ眼識によらなければならないほどである。図版にばかりたよっているとこれらに対する鑑別の眼がくらむというおそれがある。
中山法華経寺五十六代に瑞世した真如院日等は中山所蔵の大量の真蹟を上手に模写したひとの一人である。頂妙寺二十世の貫主でもあった日等はこれらの模写本を頂妙寺宝としていまにこれを伝えている。彼は真蹟模写の経験から「日蓮真蹟難讀字典」ともいうべき書と、『祖翰難字集』と自ら題した一書を作っている。この二書は完全無欠の真蹟字書とはいえないまでも、現代人が真蹟を披見するには役に立つまことに重宝な字書である。
前書の内題に「惣御書之内、難讀文字処々在」之」として、メメ=声聞、ヒヒ=縁覚、ササ=菩薩、・・・炎=涅槃、とん=とも、いかん々=いかんか、い=江、などに始まって、特種な略字、連綿体文字を字書式に整理をしたのを首部におき、つぎにそれぞれの御書の中からみにくい難讀字体を引写しして、それに正字体を脇がきする方式をとる。大版墨付四十紙の表裏にわたる。この中、末尾の十四紙は日蓮の自署と花押集となっている。
『祖翰難字集』は漢字の異体字を整理して集録することを主とし、漢字と假名文字の難讀文字をとり出して一書とした大版全三十三紙の書である。内題脇きに「深く之を秘すべし」と記入するが、秘蔵を解いて公開されれば真蹟文字の字書として良き手引き書として恩恵をうけることができると思うので、先師の業績を紹介して、このことを付記しておく。
中山歴代の座について敬虔な思いで万一のときを憂え複製を作ることを目的とされたのであろう、真蹟の字体を模筆して数多くの巻数を摸写した作業をとおして真蹟研究に一家の見をなした先師の例をあげたが、日蓮の場合、ほかにも真蹟に擬したものがかなりたくさんのとされている。しかし擬筆は真筆ではない。このことはよくよく注意して鑑別されなければならぬところである。
引用以上。
【国家公務員試験 総合職<教養区分>】 独学「ギリギリ」合格ルポエッセイ 2次試験&合格のヒント編
前回のルポエッセイの続きです。2次試験編になります。最後に教養区分合格のヒントも書いておきました。
akkiy-s16record.hatenablog.com
目次
2次試験
11月の26、27日の両日に渡って行われる試験は、1日目が現役官僚に向けて政策のプレゼンを行う企画提案試験、2日目が受験者6人でグループディスカッションを行い取るべき政策を議論する政策課題討議試験と面接(人物試験)である。加えて1次試験で書いた論文が審査される。
対策など
2次試験の対策として、私はあまり時間とやる気がなかったので、2次試験に必要な提出書類の準備と企画提案試験の参考文献のチェックくらいしかしていない。
参考文献は以下のリンクにもある通り、子供・若者白書と高齢者白書の抜粋3編が提示された。主にひきこもりに関する資料であった。
(人事院「2022年度国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験) 教養区分 第2次試験の企画提案試験について」:https://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/sougousyoku/kyouyoukubunn/CP2022kikakuteiansiryou.pdf)
本当ならばこの資料から実際に出題される問題をいくつか予想しながらプレゼンをしてみるのが良いのだろうが、私はこれらの資料に軽く目を通したくらいしかしなかった。
政策課題討議試験に至っては独学の自分にとって対策のしようがなかった。学内の勉強会のようなものを探したが無い様子だったし、予備校にも行きたくなかったので、結局何も出来ないまま当日に臨むことになった。
1日目
さて11月26日の2次試験の1日目を迎えた。私は試験会場として指定された東京都北区にある西ケ原研修合同庁舎に向かった。12時30分に試験開始だったので、12時前に最寄りの地下鉄南北線の西ケ原駅に降り、地上に上がってみると閑静な街並みが広がっていた。車通りも少なく建物もそこまで高くないので空が広いように感じた。車が大量に行き交い、緊急車両のサイレンが鳴り響く環境に慣れていたので、西ケ原の街がとても落ち着いているように感じた。
駅から会場まで歩いて5分ほどである。途中コンビニで飲み物を買い会場に向かうと11時50分でまだ開門前だったので、隣の公園でしばらくのんびり過ごした。周りには自分と同じようにスーツ姿の受験者と思しき人がちらほらいて、のどかな公園の中で少々目立つように感じた。
10分ほどして開門した。人気のない敷地内にはよく手入れされた植栽が広がっている。丘に埋まるように建っている中々立派な庁舎は確か1~5階まであり、入り口が3階だった。内部はこちらも人気はないものの、掃除だけは行き届いていて、蛍光灯で青白く照らされた長い廊下がとても無機質な感じがする。受験者は2階の一室に集められ、各人に割り当てられた机に着席させられた。私は一番奥の列の一番後ろに座った。全部で7、80人もいるので机回りは狭い。
企画提案試験
試験官からしばらく今後の流れを説明されてから企画提案試験が始まった。この試験は2部構成となっており、まず1部では、90分で問題に沿ってプレゼン内容をB4ほどの紙の両面に自由に書き上げる。2部でこのレジュメを基に官僚相手に5分間プレゼンをし、20分ほど質疑応答をする。
提示された問題は、資料を参考にしつつ、孤独・孤立の問題を予防し、その問題の当事者などを支援するための具体的な施策を提案し、その際、施策は対象者の属性や生活環境を明確にし、施策推進の留意点にも触れなければならない、というものであった。
私は事前にネットで見たやり方を参考に
①現状分析
②政策目標
③現状の課題の洗い出しとその原因
④最も取り組むべき課題の選定
⑤施策内容
⑥効果と留意点
という構成でレジュメを書くことにした。たまたまニュースか新聞で見た題材だったので施策内容はすぐに思いつき、ひきこもり地域支援センターを軸に新たなコミュニティーをつくるという軸で、それらしいことを何とか書き上げた。その際、問題に過不足なくしっかり答えることと、後で試験官に突っ込まれるポイントを敢えて作ることを意識した。
1部が終わり、続いて2部となったが、ここからが苦痛の時間だった。各人が順番に呼ばれプレゼンを行う部屋に移動するのだが、それまでの待機時間が結構長い。長い人によっては4時間弱待たされる。よりによって私は一番長く待たされた。加えて、公平性を期すためという理由で読書やスマホ、雑談などが禁止される。水分補給をしたりお手洗いに立ったりするのにも許可が必要だ。従って私は4時間弱、文字通り何もしないでただじっと待っていることを強いられた。留置場にぶち込まれた気分で、これは体力的にも精神的にも本当に苦痛だった。
4時間弱してようやく私は呼ばれた。別室にて自分が先に書いたレジュメのコピーを渡されて10分ほど準備時間が与えられた。疲れ切った頭で一通りプレゼンする内容と予想される質問を確認した。体力、精神共にだいぶ追い込まれた状態でも仕事をし続けるタフさが官僚には求められるだろうから、この状況はそれを試しているのだろう、とふと思った。
その後、試験官がいるまた別の部屋に誘導された。試験室内には2、30代と思しき若めの男性試験官が2人いた。そのうちの1人に促されて席につき、本人確認を経て、5分間のプレゼンとなった。私は何とか体力を振り絞り、手元に置かれた時計を見ながらプレゼンを始めた。緊張から早口となり、何度も噛みそうになったが、冷静になろうと意識的に一呼吸置きながら話していった。
時間ピッタリでプレゼンを終え、質疑応答に移った。試験官からの質問は緊張からあまりよく覚えていないが、どの質問にもできるだけ分かりやすく論理的にぱっと答えることを心掛けた。
質問で覚えているのは提案した施策の予算などについてだ。一体どの程度の予算の規模を考えているのか、施策に必要な場所はどうするかといった内容の質問をされた。私は予算について全く考えていなかったものの、その場しのぎで何とか答えた。後になって知ったのだが、企画提案試験においては「役所はお金が無い」ということを意識して施策を考えなければならなかったようだ。幸い自分の書いた内容はそこまでお金のかかるものではなかったので命拾いした(と思ったが予算の根拠をあいまいにしたことが後に点数が伸びない原因となった)。
質疑応答は20分とされていたが5分ほど早く終了し、1日目は終わった。
2日目
翌日27日の2日目の試験は13時30分から開始だったので、13時くらいにまた昨日と同じく西ケ原研修合同庁舎に向かった。この日は昨日と違って大きな部屋が割り当てられたので窮屈な思いをしなくて済んだ。どうやらそこは昨日の部屋と同じだったものの、昨日は部屋の半分を可動式の壁で仕切り、片方は受験者の待機部屋、もう片方はプレゼンの準備の部屋としていたらしい。他の部屋はがら空きなんだからその準備部屋は別室にしろよという文句が頭をよぎった。
政策課題討議試験
指定の席に座り、試験官がまたその日の流れを一通り説明してから政策課題討議試験が始まった。提示された問題は具体的には忘れたが、
A:大学に対して国が支援を拡充すべきである
B:大学に対して国の支援を拡充すべきでない
の2択から1つを選び説明するというようなものだった。この試験も2部構成となっており、まず1部では2部のグループ討議で使ための、自分の考えを書き込んだレジュメを作成する。そして2部では6人グループで採るべき政策をどちらにし、またどうするか議論をしながら形にしていく。
1部は20分でレジュメを仕上げなければならず、時間的猶予はあまりない。A4ほどの紙の片面にどちらの案にするか、自分の考えも含めて書くわけだが、考えていると本当に時間がすぐに過ぎてゆく。現状分析や政策目標、案の選択、その理由、期待できる効果などをしっかり書こうと思ったが、ああでもないこうでもないと悩んでいたら残り2分となっており、結局3、4行だけの殴り書きになってしまった。
やってしまった、と思いつつもグルディスで挽回しようと私は気分を切り替えた。こういう試験の場面では少しミスしても気持ちを入れ替えることは大事である。ただ今にして思うと、グルディスの対策を全くしていない自分が挽回できるなどという見通しは甘いと言わざるを得なかった。そして私は猛者たちに圧倒されて終わることとなってしまう。
レジュメが回収されてグルディスの資料としてコピーが取られている間、確か諸々の書類を提出する時間となった。ここで重要となるのが英語試験の活用である。英検やTOEICなどの英語の試験で一定のスコアを有していると、最終成績の点数に15点、もしくは25点加算されるのだ。私の場合はTOEICで900点を取っていたので25点加算されることになる。最終合格を得るために英語試験を活用しない手はないだろう。
書類の提出も一通り済むといよいよ2部のグルディスである。待機室の机の各号車ごとには6人いて、この6人でグルディスをすることになる。グルディスを行う部屋に案内されると、2人掛けの机が3脚、三角形をなすように並べられており、各人が指定された場所に座る。少しすると試験官3人が入ってきて、3人が我々の後ろを囲むようにバラバラに座った。ここではまず各人がそれぞれレジュメを基に自分の選択・主張を2分程で順番に説明し、その後30分程グルディスとなり、最後に各人が順番に感想を1分で述べる。
始まる前に試験官から全員分のレジュメのコピーが一人一人に渡された。それに目を通して私は他の人のレジュメの完成度の高さに驚いた。皆、現状分析から打ち手、理由、その後の効果などなどをしっかり書いており、ゴミみたいな殴り書きをしていたのは私一人だった。
自分の気持ちが劣等感と焦りで一気にざわつく中、1人目の人が試験官に促されて説明を始めた。この順番だと私が最後である。この人の話を聞いていて、考えていることや発想、思考法の次元の高さが自分とはまるで違うと思い知った。自分はせいぜい問題で提示されていたことから無難な主張を導いた(それでもだいぶ粗雑な主張である)が、その人は日ごろからこういう問題のことを考えているのだと分かる。話しぶりからかなり練習してきたことも伺える。1人目の人に勝手に感心していると、次の人も同じような完成度の高い主張を展開した。というか、自分以外の全員が同様に非の打ちどころのないような考えを提示した。私は周りの人のレベルの高さに圧倒されな、がら、自分の粗末な殴り書きのレジュメを基にゴミみたいな拙い主張を手短に述べただけである。
続いてグルディスに移った。各人の合意の下、自由に議論してよいと試験官から指示があり討議が始まった。ちなみにグルディスにおいて私たちは事前に割り当てられた番号でお互いを呼び合わなければならない。私の右前方にいる人がタイムキーパーを名乗り出た後、その隣にいた人が話し始め、自然とその人が司会という風になった。この司会の人がまた優秀そうな感じがしたのである。各人に話を振りながら議論の方向性を決めて、全体の議論をまとめていく立ち回りから、彼はプロの官僚になってそうだなあ、などとぼんやり思った。またそれ以外の周りの人も筋の通った意見を議論のペースに合わせながら丁寧に述べていっている。
「全体としてはこちらが優勢だったのでこっちの方向性でまとめていきましょうか」
「論点としては主にこれらに収斂されますかね」
「〇番さんの~という視点はこれを展開する上で重要であるように感じます」
「方向性としてはこうで、その上でこの考えなどにも最後触れていくのが良いと思います」
私はレベルの高い猛者たちの議論に全くと言っていいほどついて行けなかった。練習もしていないし、テンポの速いやり取りは苦手なコミュ障なので、どのように立ち回ればよいのか分からない。また自分の想定よりも皆が相当深いところまで考えた上で議論しているので、自分の意見が全く浮かばず何を言うべきかも分からない。私はただ少し笑みを浮かべながら相槌を打つだけである。そんな私にも気を遣ってか例の司会の人が話を振ってくれたが、私は「○○、良いと思います」くらいしか言えなかった。
ただ、これではまずいと思って、議論の行方を何とか辿り、各人のレジュメを繰り返し見ながら、論点に加えたほうがよさそうな考えを見つけ、タイミングを見計らって意見を述べた。例の司会の人が良い感じにフォローしてくれたのもあって、その後の議論にこの論点が追加された。ただ私の活躍らしい活躍はこれくらいで、基本は首振り人形ムーブだった。
議論が良い感じにまとまっていき、グルディスも円満な感じで終了した。その後各人が感想を順番に言っていくことになったが、試験官の指示で順番がさっきとは逆になった。つまり私が最初に感想を述べるのだ。周りのレベルの高さに圧倒され、ついて行けませんでした、完敗です、が本音だったが、そう言う訳にもいかないので、「こうこうこういうところが良かったと思います」などと無難な言葉を私は述べた。何も議論に貢献せず、挙動不審になっていた私がそのような、さも皆と侃侃諤諤、有意義な討議をした充実感を滲ませたような感想を、しかも一番初めに言うのが何だかとても滑稽に思えた。
周りの人もそれぞれに無難な感想を述べていき、政策課題討議試験が終わり、試験官が退出した。周りの人は自分が納得できるような立ち回りができたというような晴れ晴れとした表情でほっと一息をついていたが、私は一人意気消沈という感じだった。完全にやらかしたと思った。ただ、E判定、つまり問答無用の不合格となる、議論をぶち壊すような言動はしていないことは確かだったので、グルディスは最低評価のDだろうと思った。それでも1次の基礎能力試験の点数の低さをカバーするには不十分な評価であるのは確かだ。
人物試験
さて、待機室に戻り、落ち込んだ気分になったりそれを振り払ったりしながら、最後の人物試験=面接の準備をした。ここで何とか挽回しなければならない。私は何を聞かれてもハキハキと答えられるように、事前に書いておいた面接カードに繰り返し目を通した。
私はまたも号車の一番後ろの席で、面接も最後に呼ばれた。別室の前に移動し、案内の係に促されるまで廊下で待機していた。廊下に漂う冷気と緊張から来る自身の冷や汗とで、リアルに震えながら待っていた。
前の受験者が部屋から出てきてしばらくしてから、案内係に促されて部屋に入った。中には右からベテランっぽい女性、ベテランっぽい男性、中堅っぽい男性の3人が椅子に座り待ち構えていた。私は自分が座るであろう椅子の前に立ち、真ん中の男性試験官に促されて着席した。
どうやら真ん中の男性が面接官の中でのリーダーらしい。その面接官に促され自己紹介をした。出身大学を述べるのは禁句であると待機中に試験官から説明を受けていたので、私は学部と氏名を述べた。これから何を言われるのか身構えていると真ん中の面接官が最初に話しかけてきた。と言っても突飛な質問ではなく、事前に書いていた面接カードに沿って、ガクチカや社会活動などについて聞かれた。私は面接カードに書いていた内容をほぼそのまま答えた。するとその面接官は頷くしぐさを見せたので私はひとまず安心した。が、その安堵は隣の中堅男性面接官から質問をされたことですぐに打ち消された。
そもそも最初から感じていたことだが、彼の目が私の身体全体を睨め回しているように感じ、この面接官とは波長が合わなさそうだと思った。そして案の定、こちらを試すような嫌味っぽい質問をされた。社会活動に関して質問され、私はサークルでの自分の活動について述べた。すると彼は不敵な笑みを浮かべながらそれについて深掘りしてきた。私は彼の態度を見ていて、何だかこちらが見下されているように感じた。するとこの予感は当たった。私はサークルで自主的な研究をしていた体験を話したものの、その面接官から急に「官僚はプレーヤーというよりも調整役だ」という趣旨の指摘を受けた。確かに官僚はその通りだとこれまで真面目に中央省庁の業界研究をしてこなかった私は気づかされ当てが外れたように内心動揺したが、同時にまるで私の回答を拒絶するかのような不遜な態度にイラっとしたが、そこは何とか我慢した。
最後に右の女性面接官に移って、志望動機の深掘りや志望度の熱意、自分の価値観などを問うような質問を受けた。前と違ってこちらをいじめてくるような話しぶりではなく、むしろ動揺した私をフォローするようなトーンで話を振ってきてくれた。私も少々安堵して、自分の志望動機である社会貢献性の高い仕事をしたいということや、そのように思ったきっかけなどを質問に沿って答えていった。言いたいことは何とか全て言い切ることができ、相手に響いたかはよく分からなかったが少なくとも悪い印象は与えなかったということだけは確信できた。
真ん中の面接官に面接終了を告げられて、部屋を出た。もう少し続くのかと思っていたので、意外とあっけなく終わったように感じた。しかし左の面接官が言った「官僚はプレーヤーというよりも調整役だ」という言葉が心につっかえたように残っていた。私はこれまで官僚の政策立案という側面だけに注目してしまっていたが、官僚は様々な意見を取りまとめて政策として形にしていくのだとうっすらと気づき始め、自分が小さくない勘違いをして面接を受けていたように感じた。グルディスで司会をしていた彼のことをぼんやり思い返した。議論のゴールを見据えつつ、色々な意見を取りまとめ一つの形にしようとするあの振る舞いこそ、官僚として必要な素質であり、自分にはその視点が欠落していたことを思い知った。
2日間が終わった解放感と疲労感と反省を引きずりながら、もうすっかり暗くなった寒空の下、西ケ原研修合同庁舎を後にした。
最終合格発表と成績開示
そして、12月14日の最終合格発表の日。
そういえば今日は発表の日だと朝目覚めてぼんやり思い出した。完全に落ちた気でいた私はそれでもほんのちょっとの期待を抱きつつ、うつらうつらしながらパソコンの合格発表の画面を見つめた。
すると、なんとまたも自分の受験番号が載っているではないか。
何度も確かめても、自分の番号は確かにそこにあった。驚きで眠気は全く吹き飛び、思わず小躍りしてしまった。
合格通知書をダウンロードし見てみると、自分の名前もしっかりある。
そしてよくよく見ると席次と点数が書いてあった。
合格者255名の中で私は下から9人目で、まさにギリギリ合格に滑り込んだ格好だ。得点も、例年の合格者の最低点が540点前後なので、それよりも明らかに低い。
(人事院「2022年度 国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)(教養区分) 合格点及び平均点等一覧」:https://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/heikin/shikencp_heikin.pdf)
ろくな対策はしなかったものの最終合格してしまったので、とても得した気分になった。
年が明けてからしばらくして自分の成績が開示された。
早速見てみると、総合論文は平均12点ちょっとに対して15点とまあまあ良くできていた。一方、企画提案と政策課題討議はどちらも基準点(これに達しないと問答無用で不合格となる点数)ぴったりで、ギリギリだった。グルディスはともかく、少し手ごたえがあったプレゼンもこんなに低い点数でビビった。今思うとお金のことをあまり考えていなかったことが面接官に伝わり、低い評価につながったのかもしれない。面接がC判定なのが救いである。
改めてみると、1次試験の点数もギリギリである。知識分野は自己採点よりも1点低い18点だし。
英語の加算があってもこの点数は例年ならば合格できないほど低いのが分かる。正直なところ、これでよく受かったなあと我ながら思う。対策があまり不十分でも受からないことはない、ということだけは証明できたので満足である(これだと受かる可能性は低いが)。
終わりに
ここまで長々と書いてきたが、この文章が教養区分試験に関する情報格差を是正するのに少しでも貢献できれば幸いである。特に、周りに共に試験を受ける仲間がいない、予備校に通えないなど、受験に当たって不利な状況に置かれている方にとってこの文章が多少なりとも参考になればこれほど嬉しいことはない。
私は何度も言うように、十分な対策をしてこなかった訳だが、逆に言えばこれ以上の対策をすれば、教養区分試験に合格する可能性は高まるのではないか。
教養区分合格のヒント
以下に私がやったこととその結果、更なる対策の案をまとめた。点数が圧倒的に低かった自分は対策などについて何かを言える立場にはないが、点数を取る目安になればと思う。
1次
・基礎能力試験で私がしたこと:過去問の演習、歴史科目の復習(高校の教科書を読む)。
→結果、知能13点、知識18点。ギリギリ足切りを食らわずに済む。
→更なる対策は、数的推理を解けるようにする(自分の場合はやっても効果がなかったが)、知識分野を固める(コスパは悪いが確実かも)、など。
・総合論文試験で私がしたこと:前年の問題を一度軽く解く、資料を全て踏まえながら問題にしっかり答えることを意識する。点数の重みづけはこれが一番大きい。
→結果、1部は8点、2部は7点の計15点(満点20点、平均点12.113点、標準偏差2.492)。
→更なる対策は、何題か解いてみる、他の人に書いてみた文章を読んでもらいフィードバックをもらう、など。
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・企画提案試験で私がしたこと:事前の資料の読み込み、論理を固める。
→結果、基準点と同じ4点をもらう(満点12点、基準点4点、平均点5.951点、標準偏差2.061)
→更なる対策は、「役所にはお金が無い」ということや「予算を得る上で国民にどう説明するか」ということを意識する、想定される問題をいくつか予想して実際にレジュメづくりとプレゼンをやってみる、プレゼンの練習を他の人に聞いてもらいフィードバックをもらう、など。
・政策課題討議試験で私がしたこと:議論をぶち壊すような言動をしない、議論全体を聞きながら見逃されている論点を拾う。
→結果、最低評価(=基準点)のDをもらう(A、B、C、Dの4段階評価、Eだと即不合格になる)。
→更なる対策は、レジュメを時間内に仕上げる練習を重ねる(現状分析、政策目標、案の選択、理由、期待できる効果などを書く→こうすることでグルディスで皆に参照され自然と自分の持って行きたい方向に議論を導くことができるかも)、グルディスの練習を他の人とする(いなければ大学のキャリアセンターなども活用する)、など。
判定段階が1つ違うだけでもらえる点数がだいぶ違ってくるので、最低でもCを取りたいところ。
・人物試験で私がしたこと:少なくとも面接カードに書いたことを深掘りされてもしっかり答えられるようにする。
→結果、C評価をもらう(A、B、C、Dの4段階評価、Eだと即不合格になる)。
→更なる対策は、「官僚はプレーヤーよりも様々な意見をまとめる調整役である」ことを意識する、組織で多くの人の間に立って調整役をした経験(ガクチカ)を話す、など。
判定段階が1つ違うだけでもらえる点数がだいぶ違ってくるので、最低でもCを取りたいところ。